マリア=テレジア|ハプスブルクを支えた女帝

マリア=テレジア

マリア=テレジアは、18世紀のハプスブルク帝国を統治した女君主であり、オーストリア大公、ハンガリー女王、ボヘミア女王など多くの称号を兼ねた統治者である。父カール6世に男子がいなかったため、特別な継承規定であるプラグマティッシェ=ザンクチオンによって家督を受け継ぎ、その即位はヨーロッパ諸国の利害を巻き込むオーストリア継承戦争の発端となった。彼女は度重なる戦争と財政危機に直面しながらも、行政・軍事・財政の広範な改革を進め、ハプスブルク国家を近代的な集権国家へと再編した君主として位置づけられる。

生涯と家族背景

マリア=テレジアは1717年にウィーンで生まれ、敬虔なカトリックの宮廷文化の中で育った。父カール6世は、娘に帝国の将来を託し、幼少期から政治・外交に関する教育を施したとされる。彼女はロレーヌ公フランツと結婚し、後に皇帝となるヨーゼフ2世やフランス王妃マリー=アントワネットなど、多くの子をもうけ、婚姻政策を通じてハプスブルク家の影響力をヨーロッパ各地へ広げた。

女子継承をめぐる欧州外交

マリア=テレジアの継承を可能にしたプラグマティッシェ=ザンクチオンは、ハプスブルク領の不可分と女子相続を定め、これを諸国に承認させるため長年の外交努力が費やされた。しかし、父の死後まもなく、その約束は反故にされ、バイエルン選帝侯やプロイセン王国が継承権を主張してオーストリア継承戦争が勃発する。プロイセンは工業力と軍事力に富むシュレジェンへ侵攻し、以後ハプスブルクとプロイセンの対立は18世紀ドイツ世界の軸となった。

内政改革と統治スタイル

マリア=テレジアは、戦争によって疲弊した財政と軍事力を立て直すため、大規模な内政改革に取り組んだ。彼女は各地域に分散していた機構をウィーンに集約し、官僚機構の職務を明確化して中央集権化を進めた。また、租税の負担を貴族にも広げ、徴税の仕組みを整備することで恒常的な国家収入を確保し、常備軍の維持を可能にした。宗教的には熱心なカトリック信徒であったが、教育制度の整備や農民保護など、理性と公益を重んじる政策も打ち出し、のちの啓蒙専制主義的統治の先駆と評価される。

  • 中央官庁の統合と官僚制の強化
  • 全国的な徴税制度の整備と財政再建
  • 初等教育の普及と学校制度の整備
  • 農民保護を目的とした農政改革

啓蒙専制君主としての側面

マリア=テレジアは、自らを「国家の母」とみなし、臣民を家族のように保護すべき存在と考えた。教会に対しては依然として強い影響力を認めつつも、修道院の整理や司教任命への関与を通じて、国家が宗教を統制する方向を強めている。このような姿勢は、理性と国家利益を重視する啓蒙専制君主としての性格を示し、後継者たるヨーゼフ2世の急進的改革の基盤となった。

対外政策と戦争

マリア=テレジアの治世は、ほぼ全期間が戦争と外交交渉に彩られていた。即位直後のオーストリア継承戦争では、同盟相手を変えつつ領土の保全に努めたが、戦後もシュレジェンの喪失は取り戻せなかった。その雪辱を目指して彼女はフランスやロシアと結びつき、かつての敵フランスと同盟する「外交革命」を通じてプロイセン包囲を企図する。こうして始まった七年戦争でも決定的勝利は得られず、シュレジェン再奪回の試みは最終的に失敗に終わったが、長期戦を支えた行政と財政の強化はハプスブルク国家の持久力を高めた。

後期の統治とバイエルン問題

マリア=テレジア晩年には、プロイセンによるドイツ世界への影響拡大を抑えるため、バイエルン継承問題にも関与した。彼女はバイエルンの併合には慎重で、過度な領土拡張が周辺諸国の不信を招くことを警戒していたとされる。実際の軍事行動は息子ヨーゼフ2世が主導したが、母としての抑制的判断は、ハプスブルクがヨーロッパの均衡維持に一定の役割を果たすべきだという伝統的外交観を反映している。

歴史的意義

マリア=テレジアは、女性として帝国を継承し、多民族国家ハプスブルク帝国を再編した統治者として歴史に残る。シュレジェン喪失など領土面では譲歩を強いられたものの、内政改革を通じて軍事・財政基盤を強化し、のちのオーストリア帝国とドナウ帝国の枠組みを整えた点で大きな意義を持つ。また、信仰に根ざした温情的統治と、理性と国家利益を重んじる啓蒙専制主義的側面を併せ持つ姿は、18世紀ヨーロッパ君主制の変容を理解するうえで格好の事例であり、同時代のプロイセンやフリードリヒ=ヴィルヘルム1世の路線と比較されながら研究が続けられている。