スコットランドの反乱
スコットランドの反乱は、17世紀前半、スコットランドにイングランド式の礼拝と制度を強制しようとしたイングランド王チャールズ1世に対して、長老派(プレズビテリアン)を中心とするスコットランドの人々が抵抗して起こした大規模な政治・宗教運動である。この反乱は、単なる地方的な暴動ではなく、王権と宗教改革後の教会制度をめぐる対立が噴出したものであり、やがてイングランド本国を巻き込んだ内戦、すなわちイギリス革命へと連鎖していく重要な契機となった。
宗教改革後のスコットランドと同君連合
16世紀の宗教改革の結果、スコットランドではカルヴァン主義に立脚した長老派教会が確立し、国王の支配から比較的自立した教会制度が整えられていた。一方イングランドでは、国王を首長とする国教会体制が築かれており、両者は同じプロテスタントでありながら制度と伝統が大きく異なっていた。1603年、スコットランド王ジェームズ6世がイングランド王ジェームズ1世を兼ねる同君連合が成立すると、両王国は一人の君主のもとに置かれたが、宗教制度の違いは残され、その矛盾が17世紀に入って表面化していく。
チャールズ1世の専制と宗教政策
ステュアート朝のチャールズ1世は、議会をしばしば無視して専制的な財政・宗教政策を推し進めた。とくに宗教面では、イングランド国教会の儀礼を重んじる高教会的な傾向を強め、その様式をスコットランドにも拡大しようとした。彼はカンタベリー大主教ローズを重用し、礼拝や典礼の統一を図るが、これはスコットランドの長老派にとって、教会の自治と信仰の伝統への重大な侵害と受け止められた。スコットランドの貴族や都市民は、王が議会を無視して課税を行う姿勢にも不満を募らせていった。
祈祷書の強制とスコットランドの反乱の勃発
決定的な契機となったのが、チャールズ1世による新しい祈祷書の導入である。イングランド式の祈祷書をスコットランド教会に使用させようとしたところ、多くの信徒や牧師がこれを「異端的な押し付け」とみなし、礼拝堂では激しい抗議が起こった。こうした動きを背景に、1638年、スコットランドの貴族・都市民・聖職者は、長老派教会の制度と信仰を守るために「国民盟約」を結び、王の宗教政策に対する組織的な抵抗を宣言した。この国民盟約運動こそがスコットランドの反乱の中核であり、やがて武力衝突へと発展していく。
司教戦争と王権の財政危機
スコットランドの反乱に対し、チャールズ1世は軍事力で鎮圧しようとし、いわゆる司教戦争(ビショップ戦争)が始まった。しかし、長年議会を召集せず専制的に統治してきたため、王室財政は逼迫しており、十分な軍備を整えることができなかった。戦いはスコットランド側が優位に進み、王は有利な条件で和議を結ばざるをえなくなる。さらに、スコットランド軍の駐留費用を負担する必要が生じたことで財政難はいっそう深刻化し、ついにチャールズ1世は資金調達のためにイングランド議会を再召集する決断に追い込まれた。
議会政治の再開とイギリス革命への連鎖
- 短期議会と長期議会の招集
- 王権批判の高まりと権利の請願の再評価
- スコットランド勢力とイングランド議会派の連携
1640年、チャールズ1世はまず短期議会を召集するが、議会が王の専制政治を批判して解散されると、続いて長期議会(ロング・パーラメント)が開かれた。この議会では、かつての権利の請願に象徴される「議会の同意なき課税の禁止」や、コモンローに基づく伝統的自由の擁護が強く主張される。スコットランドの盟約派はイングランド議会と連携し、王権への圧力を強めた。こうしてスコットランドの反乱は、イングランド国内の政治対立と結びつき、最終的には王党派と議会派が武力で争うイギリス革命(ピューリタン革命)の発端となったのである。
スコットランドの反乱と政治思想・法制度
スコットランドの反乱は、単に軍事的な反乱ではなく、王と議会、王権と法の支配との関係を問い直す契機ともなった。王権神授説を主張したフィルマーのような政治思想家に対し、議会派は、歴史的慣習とコモン=ローに基づく自由の伝統を強調し、王権を法の枠内に拘束すべきだと主張した。スコットランドの長老派も、教会の自治を守るために、世俗権力の宗教介入を制限しようとする思想を育てた点で、後の立憲主義の発展と無縁ではない。
スコットランドと三王国問題
17世紀のブリテン諸島では、イングランド、スコットランド、アイルランドという三つの王国を一人の君主が統治する体制が成立していたが、それぞれの歴史的背景や宗教事情は大きく異なっていた。ジェームズ1世に始まりチャールズ1世に受け継がれた三王国統治は、その調整に失敗するとただちに危機へと転じる構造を内包していた。火薬陰謀事件に見られるカトリック勢力の不満、アイルランド反乱、そしてスコットランドの反乱は、いずれもこの三王国問題の表れであり、やがてステュアート王権の崩壊へとつながっていく。
歴史的意義
スコットランドの反乱は、スコットランドにおける宗教的自立と長老派教会の伝統を守る運動であると同時に、イングランド本国の政治危機を誘発した出来事である。財政難に陥った王が議会の再召集を余儀なくされたことにより、王権と議会の長年の対立が一気に表面化し、ステュアート朝王政の行方を決定づける内戦へと発展した。さらに、議会派・盟約派・清教徒勢力の経験は、後の立憲君主制や議会主義の形成に深い影響を与えたと評価される。このように、スコットランドの反乱は、一地方の反乱を超え、三王国の関係と近代イギリス国家形成の鍵をなす事件として理解されている。