コモン=ロー
コモン=ローとは、中世後期のイングランド王国で形成され、主として裁判所の判決を通じて発展してきた法体系である。国王直属の裁判所が全国に共通する「普通法」を作り上げたことから、イングランドの政治史、とくにステュアート朝期の国家形成や議会制度、さらにはイギリス革命後の立憲主義の展開を理解するうえで欠かせない概念となっている。近代以降は、イングランドから分立・独立したジェームズ1世以後の諸王や議会の政策、のちに独立したアメリカや植民地地域へも移植され、現在では英米法圏を特徴づける基本的な法伝統として位置づけられている。
成立と歴史的背景
コモン=ローの起源は、ノルマン・コンクエスト後にイングランド王権が国内を統一的に支配しようとした動きにさかのぼる。ノルマン系王朝は、国内の紛争解決を国王裁判所に集中させ、各地の慣習を整理・統合して王国共通の法としようとした。このとき、裁判官たちは個々の事件ごとに判断を下し、その判決理由を蓄積していった。こうして形成された先例が、後の裁判で繰り返し参照されるようになり、過去の判決の蓄積そのものが法の内容となっていったのである。このプロセスは、王権とともに強化された常備軍や官僚制、中央集権的な財政制度の整備とも歩調を合わせて進んだ。
判例法としての特徴
コモン=ローは、「判例法」と呼ばれる特徴をもつ。これは、成文の法典よりも裁判所の判決に含まれる理由づけが、後の裁判において拘束力を持つという考え方である。裁判官は、同種の事案であれば過去の判決に従うべきだとされ、この原則は先例拘束性と呼ばれる。こうした仕組みによって、紛争解決の過程で新たなルールが少しずつ形成され、社会の変化に応じて柔軟に修正されていくことが可能となった。他方で、専門的な判決の積み重ねが複雑化し、一般の人びとには分かりにくくなるという側面もあったため、判例を体系的に整理する法学者や実務家の役割が大きくなっていった。
衡平法との関係
コモン=ローの運用が形式化していくと、その硬直性を補う仕組みとして衡平法(エクイティ)が発達した。国王大法官が担当した衡平法裁判所は、厳格な先例にとらわれず、当事者の実質的な救済を重視して判断を下したとされる。時に、両者の判断が衝突することもあり、権利の請願や火薬陰謀事件前後の政治的緊張のなかで、王権・議会・裁判所の権限関係が争われた歴史も存在する。近代以降は、衡平法の原理が通常の裁判所にも取り込まれ、多くの法域で衡平法と普通法の制度上の区別は縮小しつつあるが、公正・信義・救済の観点を強調する衡平法の思考は現在も重要な位置を占めている。
コモン=ローとイギリス政治史
コモン=ローは、単なる技術的な法体系にとどまらず、イングランドおよびその後継国家の政治文化を支える基盤となった。とくにチャールズ1世の専制的統治に対して、判事や弁護士たちは伝統的な権利・自由を守るものとして普通法を強調し、議会と王権の対立の中で法の支配という理念が強められた。イギリス革命後には、議会主権と国王権の関係が再編され、裁判所は議会制定法と普通法を調和させながら、立憲主義国家の秩序を維持する役割を担った。この過程で、同君連合にあるスコットランドとの法制度の違いも意識され、各王国の法伝統を尊重しつつ王権を共有するという枠組みが整えられていった。
英米法圏への拡大と現代的意義
コモン=ローは、イングランドの海外進出と植民地支配の拡大にともない、広範な地域に持ち込まれた。北米、オセアニア、インドなどでは、現地の慣習や既存の法と折り合いをつけつつ、イングランド由来の判例法が導入されたため、各地で独自の英米法体系が形成された。その後、植民地の独立や国家形成を経て、これらの地域では議会制定法や憲法典と判例法が結びつき、民主主義や基本的人権の保障と連動した法秩序が展開している。日本では、明治期に大陸法系の成文法が導入されたが、国際取引や企業法務などの分野では英米法との比較が不可欠であり、コークやフィルマーといった近世の政治・法思想家の議論も含めて、コモン=ロー研究は比較法制史の重要な領域となっている。