ステュアート朝|王権と議会が近代を切り開く

ステュアート朝

ステュアート朝は、16世紀末から18世紀初頭にかけてスコットランドとイングランド、のちにはグレートブリテンを支配した王朝である。スコットランドで生まれた王家がイングランド王位も継承し、両王国を同一君主が統治する「同君連合」を実現した点に特色がある。同王朝の時代には、絶対王政と議会との対立が激化し、内戦、共和政、王政復古、さらには名誉革命を経て、のちの立憲君主制へつながる政治体制が形づくられた。

スコットランド王家としての起源

ステュアート朝は、14世紀にスコットランド王ロバート2世が開いた王家にさかのぼる。王家の名はもともと「家宰・執事」を意味する職名に由来し、中世スコットランド宮廷で要職を占めた一族が王位に昇格したものである。スコットランド王としてのステュアート家は、フランスとの同盟関係を背景に、イングランドと対立しつつ独自の王国を維持した。

テューダー朝断絶とイングランド王位の継承

16世紀末、イングランドのテューダー朝はエリザベス1世の死によって断絶し、その外戚にあたるスコットランド王ジェームズ6世が、イングランド王ジェームズ1世として即位した。これにより、スコットランドとイングランドは同一君主のもとに置かれることになった。ジェームズ1世は王権神授説を唱え、議会よりも王権の優位を主張したが、この姿勢がのちの議会との対立の出発点となった。

チャールズ1世とピューリタン革命

ジェームズ1世の子チャールズ1世は、専制的な財政政策と宗教政策を進め、議会と深刻に対立した。とくにイギリス国教会をめぐる改革を拒みつつ、高位聖職者を重用したことは、議会内のピューリタン勢力の反発を招いた。その結果、1640年代に内戦が勃発し、一般にイギリス革命あるいはピューリタン革命と呼ばれる一連の戦争と政治的変動が進行した。最終的にチャールズ1世は処刑され、王政は一時的に途絶することになった。

共和政から王政復古へ

内戦後、オリバー・クロムウェルの指導のもとで共和政が成立したが、その統治は軍事的色彩が濃く、安定した制度として定着しなかった。クロムウェル死後の混乱を経て、1660年にチャールズ2世が即位し、ステュアート朝による王政復古が実現する。チャールズ2世は議会との調和を図りつつも、宮廷文化の復興や海洋進出、重商主義政策などを進め、大英帝国形成の基盤を整えていった。

名誉革命と立憲君主制の確立

チャールズ2世の弟ジェームズ2世はカトリック信仰をあらわにし、国教会・議会勢力との対立を深めた。これに対し、議会はオランダ総督ウィレムとメアリを招き、1688年に流血を最小限にとどめつつ王位交代を実現したのが名誉革命である。革命後の権利章典は、王権を議会の法に拘束されるものと位置づけ、立憲君主制の基本原理を示した。ここにステュアート朝のもとで、近代的な議会制の枠組みが整いはじめたのである。

アン女王とハノーヴァー朝への移行

最後のステュアート女王アンの治世には、1707年の連合法によってイングランドとスコットランドが正式に連合し、グレートブリテン王国が成立した。アンには後継ぎがなく、王位はドイツのハノーヴァー選帝侯家に移り、ハノーヴァー朝が開かれる。こうして王位継承の面ではステュアート朝は途絶えるが、その後も旧王家の復位をめざすジャコバイト運動が続き、18世紀半ばまでブリテン政治に影響を与えた。

ステュアート朝期の社会・文化とその意義

ステュアート朝は、政治体制だけでなく社会・文化の面でも大きな変化の時代であった。ロンドンは商業と金融の中心地として成長し、海外では北アメリカやカリブ海などへの植民地拡大が進んだ。また科学革命や文芸の発展もこの時期に重なり、近代ヨーロッパ世界の形成に重要な役割を果たした。絶対王権と議会の対立から、名誉革命を経て安定した立憲君主制へと至る過程は、のちの近代国家のモデルとみなされ、ヨーロッパ政治思想史の中でも大きな位置を占めている。