イギリス革命
イギリス革命とは、17世紀のイングランドで起こった一連の政治的変動を指し、一般にピューリタン革命(イギリス内戦)、クロムウェルの共和政と護国政、王政復古、名誉革命までを含めて理解される。これらの出来事は、王権の専制を抑え、議会主権と立憲君主制を確立した点で、近代的な市民社会と議会政治の出発点とみなされる。
17世紀イギリスの社会・政治的背景
テューダー朝末期からステュアート朝にかけて、国王は財政難の克服と軍事費の調達のため、伝統的な封建的収入だけではなく新たな課税を必要とした。一方、羊毛産業の発展や囲い込みにより、新興のジェントリや商人層が力を持ち、彼らを背景とする議会は、課税に対する自らの同意権を主張していった。ジェームズ1世やチャールズ1世が唱えた王権神授説は、議会側からすれば時代遅れの特権意識と映り、宗教的には清教徒勢力の伸長が、国教会を擁護する王権と鋭く対立した。
- 財政難と新税導入をめぐる国王と議会の対立
- ジェントリ・商人層など都市的・近代的勢力の台頭
- 国教会と清教徒(ピューリタン)との宗教対立
- スコットランドやアイルランド問題を含む複合王国としての矛盾
ピューリタン革命(イギリス内戦)の展開
チャールズ1世が議会を無視して専制的支配を強めると、1640年に召集された長期議会は国王批判を強め、1642年には国王派と議会派の武力衝突へと発展した。これがいわゆるピューリタン革命、すなわちイギリス革命の前半である。王党派(キャヴァリアーズ)に対し、議会派(ラウンドヘッズ)は清教徒を多く含む新模範軍を組織し、オリヴァー・クロムウェルの指導のもとで勝利を重ねた。1649年には国王チャールズ1世が処刑され、イングランドは共和政(コモンウェルス)を宣言し、ヨーロッパに衝撃を与えた。
クロムウェルの護国政と王政復古
共和政樹立後、軍事的・政治的実権はクロムウェルに集中し、1653年には護国卿として事実上の軍事独裁を行った。彼は厳格な道徳規律を求める清教徒的政策を進めるとともに、航海法を制定してオランダと海上覇権を争い、後の世界的な海洋帝国への道を開いた。しかし、重税や宗教的厳格さは国民の不満も招き、クロムウェル没後には政権基盤が崩れ、1660年にチャールズ2世が即位して王政復古が実現した。とはいえ、この時点で既にイギリス革命が生み出した「議会を無視できない王権」という枠組みは後戻りしにくいものとなっていた。
名誉革命と立憲君主制の確立
チャールズ2世の弟であるジェームズ2世は、カトリックを優遇し、専制的傾向を強めたため、再び議会と国民の強い反発を招いた。議会の指導者たちはオランダ総督ウィレム(のちのウィリアム3世)とメアリを招き、1688年にジェームズ2世はほとんど流血のない形で退位に追い込まれた。これが名誉革命と呼ばれる出来事である。1689年には権利の章典が制定され、議会の同意なき課税や常備軍の維持が禁じられ、王権は議会の承認に拘束されることになった。この体制の下で、後に首相や内閣制、政党政治(ホイッグとトーリ)の発展が進み、「王は君臨すれども統治せず」という近代的な立憲君主制の理念が形づくられていった。
イギリス革命の意義とその後の影響
イギリス革命は、身分的な特権秩序よりも、議会を通じた社会の代表と法の支配を優先させた点で、市民革命の先駆けと評価される。絶対王政が残存したフランスなどと対照的に、イギリスでは財産権の保障や契約の自由が重視され、近代的な資本主義経済と世界貿易の発展を支える制度が整えられていった。また、権利の章典は後のアメリカ独立革命やフランス革命、さらには近代立憲主義の理論に大きな影響を与えた。近代以降の思想家サルトルやニーチェが論じた自由や主体性の問題も、こうした政治的・社会的変動を背景として理解されることが多く、17世紀イングランドの経験はヨーロッパ思想史全体の重要な一章をなしている。