ジム=クロウ
ジム=クロウとは、19世紀末から20世紀半ばにかけて、アメリカ合衆国南部を中心に制度化された人種隔離と差別の体制を指す名称である。黒人と白人を学校、交通機関、公園、劇場などあらゆる公共空間で分離し、政治参加や経済生活から黒人を排除した法制度・慣行の総称であり、南北戦争後に成立した形式上の自由や平等を大きく制限した。
名称の由来と歴史的背景
ジム=クロウという名称は、19世紀のミンストレル・ショーに登場した黒人を嘲笑的に描くキャラクター「ジム・クロウ」に由来するといわれる。南北戦争と黒人奴隷制の廃止によって、法的には黒人は自由民となり、憲法修正第13条・憲法修正第14条・憲法修正第15条によって奴隷制廃止、市民権、選挙権が保障された。しかし南部の白人社会はこの変化に強い反発を抱き、再建期の連邦政府の監督が弱まると、黒人の社会的進出を抑え込む新しい支配システムを作り上げた。それが後にジム=クロウと総称される人種隔離体制である。
法制度としての特徴
ジム=クロウ体制の核は、州法・地方条例として制定された人種隔離法であった。鉄道車両、バス、待合室、レストラン、ホテル、学校、病院、墓地に至るまで、白人用と黒人用が厳格に分けられた。また、選挙権を奪うために、人頭税や読み書き能力テスト、祖父条項などの制度が導入され、多くの黒人は投票登録すらできなかった。これらは表面上は人種を明記しない場合もあったが、運用によって黒人を排除するよう設計されていた。
連邦最高裁と「分離すれども平等」
1896年のプレッシー対ファーガソン事件で、連邦最高裁は人種ごとに分離された施設であっても「平等」である限り合憲と判断し、「分離すれども平等」という原則を示した。この判決はジム=クロウの法的正当化となり、その後半世紀にわたり南部諸州は人種隔離を拡大・維持した。実際には黒人用施設は著しく劣悪であり、教育、医療、公共サービスの水準には大きな格差が生じ、構造的な黒人差別を固定化した。
日常生活と暴力
ジム=クロウの下では、黒人は日常生活の細部に至るまで行動を制限され、白人に対する礼儀と服従が求められた。社会的規範に反するとみなされた黒人は暴力やリンチの対象となり、裁判なしの私刑で命を奪われることも少なくなかった。クー=クラックス=クランなど白人至上主義団体は、恐怖と暴力を通じてジム=クロウ体制を支え、黒人コミュニティに沈黙と萎縮を強いていった。
経済構造と社会的不平等
ジム=クロウは政治的権利だけでなく、経済的機会も大きく制限した。南部の黒人農民はシェアクロッピング(分益小作)や負債労働に縛られ、土地所有への道は閉ざされていた。都市部でも黒人は低賃金労働やサービス業に集中し、職業選択の自由は事実上存在しなかった。このような構造は、南北戦争後の南部経済の再編と結びついており、自由民を安価な労働力として組み込む仕組みとしてジム=クロウが機能したと理解される。
抵抗運動と法廷闘争
ジム=クロウに対して、黒人社会は早くから抵抗を試みた。教会や学校、黒人新聞は批判の拠点となり、全国有色人種地位向上協会(NAACP)などの団体は、裁判闘争とロビー活動を通じて人種隔離法の違憲性を訴えた。20世紀半ばには、ブラウン判決によって公立学校における人種隔離が違憲とされ、連邦レベルでジム=クロウ体制を揺るがす重要な転機となった。
公民権運動とジム=クロウの終焉
1950年代から60年代にかけて展開した公民権運動は、ジム=クロウの解体に直接つながった。モンゴメリー・バス・ボイコットや自由乗車運動、ワシントン大行進などの非暴力運動を通じて、運動家や市民は人種隔離の不当性を国内外に訴えた。キング牧師らの指導の下、連邦政府は1964年公民権法、1965年投票権法を制定し、公的施設における人種隔離と黒人の選挙権制限を法的に禁止した。これによりジム=クロウ体制は法制度としては終焉を迎えた。
歴史的評価と今日への影響
ジム=クロウは、奴隷制廃止後も形を変えて続いた支配構造として理解されている。形式上の法が改正された後も、居住分離、教育格差、刑事司法における偏りなどの問題は根強く残り、人種による不平等は現代まで連続していると指摘される。歴史研究においてジム=クロウを検討することは、南北戦争後の社会秩序の再編、アメリカ民主主義の限界、人種と階級が交差する支配のメカニズムを理解するうえで不可欠であり、その経験は今日の人権論や差別撤廃の議論にも大きな示唆を与えている。