憲法修正第13条
憲法修正第13条は、1865年に批准された合衆国憲法の改正条項であり、アフリカ系住民を中心に広がっていた黒人奴隷制の廃止を法的に確定させた規定である。「犯罪の処罰の場合を除き、合衆国およびその管轄地域において奴隷制と不本意な労役を認めない」と宣言し、制度としての奴隷制を終わらせた点で、アメリカ史上最も重要な改正の1つと評価される。
制定の背景
19世紀前半のアメリカ合衆国では、南部諸州で綿花プランテーションと奴隷制経済が発展し、北部の自由州と対立が深まった。新領土への奴隷制拡大をめぐる対立は政党再編を促し、奴隷制拡大に批判的なリンカン率いる共和党が台頭した。1860年のリンカン当選を契機に南部諸州は連邦を離脱してアメリカ連合国を結成し、1861年に南北戦争が勃発した。
奴隷解放宣言との関係
戦争中、リンカンは1863年に奴隷解放宣言を発して反乱州の奴隷解放を宣言したが、これは大統領の戦時権限に基づく措置であり、恒久的で全国的な効力には限界があった。境界州や連邦に忠実な奴隷州には全面的には適用されず、戦後に宣言の効力が争われる可能性も残った。そのため、共和党指導者や廃奴運動家は、奴隷制を制度として完全に禁止するためには憲法修正第13条のような明文改正が不可欠と考えた。
条文内容とその特徴
憲法修正第13条第1節は、奴隷制および「不本意な労役」を全面的に禁止しつつ、「適正な有罪判決を受けた犯罪の処罰として課される場合」を例外として認めた。この例外規定は、のちに受刑者労働や「コンヴィクト・リース」と呼ばれる囚人貸与制度を正当化する根拠とされ、南部諸州で黒人を標的とした厳罰法と組み合わさって、新たな半奴隷的労働形態を生む要因となった。また第2節は、連邦議会に本条を執行するための立法権限を与え、後の民権立法の憲法的根拠となった。
議会通過と州による批准
連邦議会では、1864年に上院が改正案を可決したものの、下院では反対派が強く一度は否決された。その後、戦局の変化や世論の推移を背景に支持が拡大し、1865年1月に下院でも3分の2以上の賛成で可決された。各州議会による批准は、戦争終結と再建時代の政治と結びつき、旧南部諸州の再加盟条件として批准が求められた。最終的に必要数の州が批准し、1865年12月に憲法修正第13条は正式に発効した。
第14条・第15条との連関
憲法修正第13条は奴隷制そのものを禁止したが、解放された人びとに市民権や選挙権を保証する規定は含んでいない。この空白を埋めるため、1860年代後半に合衆国憲法はさらに修正され、第14条が市民権と法の下の平等、第15条が人種による選挙権剥奪の禁止を定めた。これら3つの改正は「南北戦争修正」と総称され、奴隷制国家だったアメリカ合衆国を法的に再構成する柱となった。
社会への影響とその限界
憲法修正第13条の発効により、推計400万ともいわれる奴隷が法的には解放され、南部のプランテーション制度は崩壊した。解放奴隷は土地、教育、政治参加を求めて運動を展開し、連邦政府も一時期は自由民局などを通じて支援した。しかし南部諸州はブラック・コードと呼ばれる差別立法を制定し、農地共有制や刑務所労働を通じて旧来の支配関係を維持しようとした。最高裁も19世紀後半には第13条や関連民権法の適用を限定的に解釈し、結果として人種隔離や暴力を完全には抑えきれなかった。
歴史的意義
憲法修正第13条は、個人を財産として扱う制度そのものを禁じた点で、人権思想にとって画期的であり、近代的なアメリカ合衆国の出発点とみなされる。他方で、刑罰例外や差別構造の温存は、その後の公民権運動や民権立法を必要とする要因となった。現代でも人身売買や強制労働をめぐる議論で、第13条の理念は参照され続けており、制度としての奴隷制を否定するのみならず、実質的な自由と平等をいかに実現するかを問い続ける規定として位置づけられている。