アメリカ連合国|奴隷制擁護を掲げた分離政権

アメリカ連合国

アメリカ連合国は、南北戦争期にアメリカ合衆国から離脱した南部諸州が結成した国家である。英語ではConfederate States of Americaと呼ばれ、しばしば「南部連合」とも称される。存続期間は一般に、最初の離脱宣言がなされた1860年末から、最後の軍が降伏した1865年までとされる。アメリカ連合国は黒人奴隷労働と綿花プランテーションを基盤とした社会・経済を維持することを最重要目的とし、それが北部との対立を決定的に深め、やがて南北戦争の勃発へとつながった。

成立の背景

19世紀前半の合衆国では、新たに編入される西部領域を自由州とするか奴隷州とするかをめぐって、たびたび政治的妥協が試みられた。例えばミズーリ協定カンザスネブラスカ法は、地域ごとに奴隷制の可否を線引きしようとした取り決めであるが、却って対立を先鋭化させた。綿花経済と黒人奴隷労働に依存する南部は、奴隷制の維持と拡大を「州の権利」として主張し、産業化の進んだ北部は奴隷制の拡大に反対して新興の共和党を支持した。この対立の中で、奴隷制拡大に否定的なリンカンが1860年大統領選挙に勝利すると、南部の政治指導者は自らの社会秩序が脅かされると受け止め、連邦離脱への動きを強めた。

離脱と国家の形成

まずサウスカロライナ州をはじめとする一部南部州が連邦からの離脱を宣言し、続いて他の綿作州もこれに続いた。これら諸州は1861年に会議を開き、憲法を採択してアメリカ連合国の樹立を宣言した。首都は当初アラバマ州モンゴメリーに置かれたが、やがてバージニア州リッチモンドに移される。大統領にはジェファソン=デーヴィスが就任し、連邦憲法を参照しつつも、奴隷制の永久的保障と州権の強調を盛り込んだ独自の憲法体制が整えられた。形式上は州の主権を重視する連合国家であったが、開戦後は戦時動員の必要から中央政府の権限が拡大し、徴兵制や物資統制などが導入された。

政治体制と戦時体制の特徴

  • 憲法は奴隷制の存続を明文で認め、黒人奴隷所有を南部社会の根本原理として位置づけた。
  • 「州権」を掲げながらも、実際には長期戦に対応するため中央政府が徴税・鉄道管理・産業統制などを強め、理念と現実の間に矛盾を抱えた。
  • 外交面ではイギリスやフランスに対し「綿花外交」を展開し、綿花供給の重要性を訴えて国家承認と軍事的支援を求めたが、決定的な成果は得られなかった。
  • 経済的には、北部の海上封鎖と産業力の差によって物資不足とインフレが深刻化し、兵站の弱体化が軍事行動を制約した。

南北戦争と崩壊

1861年のサムター要塞砲撃により南北戦争が始まると、アメリカ連合国は優れた将官や地の利に支えられて当初は善戦したものの、人口・産業・鉄道網において圧倒的に優位な北部との長期戦で次第に劣勢に追い込まれた。リンカンによる奴隷解放宣言は、北部の戦争目的を奴隷制打倒へと明確化し、ヨーロッパ諸国が南部を公然と支援しにくくする効果をもたらした。1864年以降、北軍の総力戦体制が本格化し、シャーマン将軍の進軍によって南部の経済基盤は破壊され、1865年に首都リッチモンド陥落と主力軍の降伏によってアメリカ連合国は事実上崩壊した。

歴史的意義とその後

アメリカ連合国の敗北は、合衆国における奴隷制の終焉と国家統一の維持を意味したが、同時に南部社会に深い傷跡を残した。戦後の再建期には黒人に市民権を保障する試みがなされたものの、やがて差別的なジム=クロウ法や人種隔離が広まり、「失われた大義」という南部側の記憶が形成され、南部連合のシンボルや記念碑をめぐる評価は今日まで論争の的となっている。歴史研究においては、州権論や農業社会の防衛という主張の背後に、黒人奴隷制という制度の維持が決定的な動機として存在したことが強調され、19世紀アメリカにおける国家統合と人権の問題を考えるうえで、アメリカ連合国の経験は今なお重要な検討対象となっている。