サン=ジェルマン条約
サン=ジェルマン条約は、第一次世界大戦後の講和条約の一つで、1919年9月10日にパリ近郊サン=ジェルマン=アン=レーで連合国とオーストリアとの間に締結された条約である。これは、かつてのオーストリア=ハンガリー帝国を解体し、オーストリアをドイツ語圏の小国へと再編成するとともに、新しい民族国家を承認した点に特徴がある。同じくドイツに対して結ばれたヴェルサイユ条約などとともに、ヨーロッパの戦後秩序であるヴェルサイユ体制を構成する重要な条約である。
締結の背景
第一次世界大戦で敗北したオーストリア=ハンガリー帝国は、戦争末期から内部で諸民族の独立運動が激化し、帝国は事実上崩壊していた。アメリカ大統領ウィルソンの「十四か条」に示された民族自決の理念は、スラヴ系やルーマニア系など多様な民族に独立の正当性を与え、新国家樹立の動きが一気に進んだ。このような状況のなかで、連合国は帝国を継承する主体としてオーストリアと個別に講和を結ぶ必要に迫られ、その結果としてサン=ジェルマン条約が準備されたのである。
主な内容
- オーストリアと周辺諸国との新たな国境画定
- チェコスロヴァキアやユーゴスラヴィアなど新国家の承認
- オーストリアの軍備制限と賠償義務
- ドイツとの合併(アンシュルス)の禁止
- 少数民族の保護に関する規定
これらの条項を通じて、条約は旧帝国領を複数の国家に再配分し、中央ヨーロッパの政治地図を大きく書き換えた。
領土条項と新国家の形成
領土条項はサン=ジェルマン条約の中心部分をなす。旧帝国のうちボヘミア・モラヴィア・シレジアの一部はチェコスロヴァキアとして独立し、クロアチアやスロヴェニアなど南スラヴ地域はユーゴスラヴィア王国の領域とされた。また、ガリツィアの一部はポーランドへ、ブコヴィナはルーマニアへと編入され、アルプス北側の南チロルなどはイタリアに割譲された。その結果、オーストリア本体はウィーンと周辺のドイツ語圏にほぼ限定され、人口・資源ともに大きく縮小した。
軍備制限と賠償
軍事条項では、オーストリアの軍備は厳しく制限された。徴兵制は禁止され、常備軍は職業軍人のみから成る陸軍3万名程度に縮小された。重砲や航空戦力の保有も制限され、軍事工業の発展は大きく阻まれた。これは、ドイツに課せられたドイツの軍備制限に対応するものであり、中央ヨーロッパから軍事的脅威を排除しようとする連合国の意図を反映していた。また、戦争被害に対する賠償義務も規定されたが、オーストリア経済は戦後急速に疲弊していたため、実際の賠償履行は大幅に緩和・再交渉されていった。
ドイツとの合併禁止と国際連盟
サン=ジェルマン条約は、オーストリアがドイツとの合併(アンシュルス)を行うことを明確に禁止した。これは、ドイツ・オーストリアが一体化することで強大なドイツ国家が復活することを恐れた連合国の思惑によるものである。他方で、条約は新たな国際秩序の枠組みとして国際連盟の設立を承認し、オーストリアも将来的にその加盟国となる道筋が示された。この点でも、条約はヴェルサイユ条約と密接に連動していた。
民族問題と少数民族保護
民族自決の理念にもとづいて国境が引き直されたとはいえ、現実の国境線は経済や軍事、外交上の要請を考慮して引かれたため、多数の少数民族が新国家の領域内に取り残された。たとえば南チロルのドイツ系住民や、チェコスロヴァキア領内のズデーテン地方のドイツ系住民などがその典型である。条約はこうした少数民族の言語・文化的権利を保護する条項を設けたが、実際には各国のナショナリズムと政治的不安定のなかで十分に守られず、後の緊張や紛争の火種となった。
サン=ジェルマン条約の意義とその後
サン=ジェルマン条約は、オーストリア=ハンガリー帝国を解体し、中央ヨーロッパに複数の民族国家を出現させたという点で画期的であったが、同時に小国化したオーストリア経済を不安定なものとし、政治的には極端なナショナリズムや合併志向を刺激した。1938年には、条約が禁じたはずのドイツとのアンシュルスが実現し、やがて第二次世界大戦へとつながっていく。さらに、ハンガリーとの講和であるトリアノン条約、ブルガリアとのヌイイ条約、オスマン帝国とのセーヴル条約などと合わせて見ることで、戦後ヨーロッパの国際秩序がいかに不安定な妥協の上に築かれていたかが理解できる。この意味でサン=ジェルマン条約は、戦後秩序の象徴であると同時に、その脆弱さを体現した条約であったといえる。