トリアノン条約
トリアノン条約は、1920年6月4日にフランスのヴェルサイユ宮殿内トリアノン宮で締結された、ハンガリー王国と連合国との講和条約である。これは第一次世界大戦後のパリ講和体制を構成する諸条約の一つであり、とくに旧オーストリア=ハンガリー帝国を構成していたハンガリー部分の領土・軍備・政治体制を大きく制限した。広大な領土と人口を失わせたこの条約は、ハンガリーにとって国民的な屈辱と記憶され、その後の民族感情や外交姿勢に長期的な影響を与えた。
第一次世界大戦後のハンガリーと講和問題
第一次世界大戦の敗北により、二重帝国としてのオーストリア=ハンガリー帝国は崩壊し、ハンガリーは独立した国家として講和交渉の場に立つことになった。しかし戦後のハンガリーでは政権交代と社会不安が続き、一時はハンガリー評議会共和国が樹立されるなど政治情勢が安定しなかった。周辺の新興国家がハンガリー領内へ軍事的・政治的に進出するなかで、連合国側は早期に国境線を確定し、旧帝国領を整理する必要に迫られていた。
トリアノン条約の成立過程
トリアノン条約は、パリ講和会議の一環として起草され、すでにドイツに対して結ばれたヴェルサイユ条約、オーストリアに対するサン=ジェルマン条約、ブルガリアに対するヌイイ条約などと並ぶ講和条約である。連合国側は主として戦勝国の利害と、ウィルソンの掲げた民族自決の原則を組み合わせて、各地域の帰属を判断したとされたが、実際には勝者側の戦略的配慮が大きく働いた。ハンガリー代表団は十分な発言権を与えられず、事実上「完成済みの条件」を提示される形で条項を受け入れさせられたため、国内では「強制的な講和」として受け止められた。
領土割譲と国境線の変更
トリアノン条約は、旧ハンガリー王国領の大部分を周辺諸国へ割譲させ、新たな国境線を画定した。その結果、ハンガリーは戦前の領土のおよそ3分の2と人口の大半を失い、農業地帯や資源、交通網の多くを喪失したとされる。主な領土割譲の内容は以下の通りである。
- トランシルヴァニアおよび一部のバナト地方をルーマニアへ割譲
- スロヴァキアとカルパティア地方(ルテニア)を中心とする北部・北東部をチェコスロヴァキアへ割譲
- クロアチアやバチュカなど南部地域をセルビア人・クロアチア人・スロヴェニア人王国(のちのユーゴスラビア)へ割譲
- 西部の一部であるブルゲンラントをオーストリアへ移譲(一部地域は住民投票の結果ハンガリーに残留)
これらの国境変更によって、多数のマジャル人(ハンガリー人)が周辺諸国の領域に取り残されることとなり、少数民族問題が新たに生じた。この状況は、のちのヴェルサイユ体制とワシントン体制の不安定さを象徴する要素の一つとみなされる。
軍備制限とその他の条項
トリアノン条約は領土問題だけでなく、ハンガリーの軍備にも厳しい制限を課した。常備軍は志願兵制の陸軍のみとされ、その兵力規模は約3万5千人に制限され、徴兵制は禁止された。重砲や戦車、軍用機など攻勢的兵器の保有も認められず、参謀本部の設置も禁止されるなど、ハンガリーの軍事力は近隣諸国と比較して著しく弱体化した。また賠償金の支払い義務や、国内の少数民族保護に関する規定も盛り込まれ、これらは国際連盟の監視対象とされた。
ハンガリー社会への影響と民族問題
トリアノン条約による領土喪失は、ハンガリー社会に深刻な心理的打撃を与えた。数百万人規模のマジャル人が周辺国家の支配下に置かれたことで、ハンガリー本国では「失われた領土の回復」を目指す修正主義的な世論が強まり、戦間期の外交・政治の基本方針となった。このナショナリズムは、のちにハンガリーがドイツやイタリアなど revision を掲げる勢力と接近する要因ともなり、ヨーロッパ国際秩序の不安要因となった。一方、周辺諸国では領土拡大を正当化する根拠として条約が用いられ、相互の民族対立や国境紛争は解消されずに持続した。
歴史的評価
トリアノン条約は、戦後秩序を構成した諸条約の一つとしてヴェルサイユ条約などとともに評価されるが、とりわけハンガリーにとっては「国民的悲劇」として記憶されている。敗戦国への厳しい領土処分と、複雑な民族構成を抱える地域での画一的な国境線設定は、民族自決の理念と現実の国家利害の矛盾を象徴しているといえる。第二次世界大戦前後には一部国境の再調整が行われたものの、基本的な枠組みの多くは現在まで引き継がれており、トリアノン条約はヨーロッパ近現代史を理解するうえで欠かせない条約として位置づけられている。