アメリカの女性参政権|女性解放へ進んだ参政権運動

アメリカの女性参政権

アメリカの女性参政権とは、合衆国において女性が選挙で投票したり公職に就いたりする権利を指す概念である。1920年に合衆国憲法19条改正が成立し、性別を理由とした選挙権の剥奪が禁止されたことで、多くの女性に選挙権が保障された。この出来事は、民主主義国家としてのアメリカ合衆国のあり方を大きく変えた政治的転換点であり、その後のフェミニズム運動や市民権拡大の流れに重要な影響を与えた。

女性参政権の概念とアメリカの特徴

女性参政権は、近代国家における「普通選挙」の実現と深く結びついている。もともと合衆国の選挙権は白人男性の納税者や一定の財産を持つ層に限定されており、女性だけでなく多くの男性も排除されていた。19世紀を通じて財産要件が徐々に撤廃され、南北戦争後には黒人男性への選挙権付与をうたう憲法修正15条が制定されたが、女性は依然として政治から排除され続けた。このように、男性中心の政治秩序の中で、女性参政権は既存の性別役割や家父長制に挑戦する要求として位置づけられたのである。

運動の始まりとセネカフォールズ会議

合衆国で組織的な女性参政権運動が始まる契機として、1848年のセネカフォールズ会議がよく知られている。この会議では、エリザベス=キャディ=スタントンやルクレシア=モットらが中心となり、「宣言と決議」を採択して女性に対する法的・社会的差別の撤廃と参政権の付与を訴えた。彼女たちは、人間は生まれながらに平等であるとする独立宣言の理念を女性にも拡張し、女性の従属的地位を近代市民社会の原理と矛盾するものとして批判したのである。

奴隷制廃止運動との連携

初期の女性参政権運動は、奴隷制廃止運動と密接に結びついていた。多くの女性活動家は黒人奴隷の解放を求める運動に参加する中で、女性自身も政治的権利を奪われている現実に気づき、自己の解放要求へと歩みを進めた。こうした経験は、人種差別と性差別の問題が交差することを示し、後の人権運動や市民権運動にもつながる視点を提供したといえる。

19世紀後半の組織化と西部諸州の先行

南北戦争後、女性参政権運動は全国的な組織化を進めた。スーザン=アンソニーやスタントンらは全国女性参政権協会を結成し、憲法改正による全国的な参政権獲得をめざした。他方、州ごとの段階的な獲得を重視する団体も現れ、やがて両者は統合してNAWSA(全米女性参政権協会)となった。19世紀末には、西部のワイオミングやコロラドなどが先行して女性参政権を認め、合衆国の中でも地域差が生まれていった。

主な指導者と戦術

19世紀末までの運動は、請願や演説、議会への働きかけといった穏健な戦術を中心としていた。アンソニーやスタントンは、教育水準の向上や道徳的規範の維持において女性が重要な役割を果たしていることを強調し、女性の参政は社会全体の改善につながると訴えた。他方で、一部の活動家はわざと投票を試みて逮捕されることで法制度の矛盾を世に訴えるなど、より直接的な行動も行った。

20世紀初頭の展開とサフラジェット

20世紀に入ると、都市化と産業化の進展により、女性の就業や高等教育進学が増加した。これに伴い、女性参政権運動の基盤も拡大し、デモ行進や集会など大衆動員型の戦術が用いられるようになった。アリス=ポールら急進的な活動家はNWP(全国女性党)を組織し、ホワイトハウス前でのピケやハンガーストライキなど、イギリスのサフラジェットに影響を受けた戦術を取り入れた。こうした行動は社会的な議論を呼び起こし、女性の政治参加をめぐる世論の転換を促した。

第一次世界大戦と女性参政権

1914年に勃発した第一次世界大戦は、女性参政権問題に新たな局面をもたらした。戦時動員のもとで多くの男性が従軍すると、女性は工場労働や行政事務、看護などさまざまな分野で労働力として動員され、国家を支える存在となった。ウィルソン大統領は当初、女性参政権に慎重であったが、戦時下での女性の貢献を踏まえ、「民主主義のための戦い」を掲げる合衆国が自国内で女性を政治から排除し続けることは正当化できないと認識するようになった。この状況が19条改正支持へと彼を動かしたのである。

憲法19条改正の成立とその意義

1919年、連邦議会は憲法修正19条を可決し、各州の批准手続きが始まった。激しい賛否の論争を経て、1920年に必要数の州が批准したことで改正は発効し、全国的に女性の選挙権が承認された。これにより、合衆国の有権者数は大幅に拡大し、1920年代のアメリカ合衆国の繁栄と呼ばれる高度成長期や、その後のアメリカ合衆国戦間期における政治・社会の動向にも女性の存在が大きな影響を与えるようになった。女性は教育、福祉、禁酒、労働保護などの政策分野で積極的に意見を表明し、議会や行政に働きかけるようになったのである。

参政権獲得後も残された制限

アメリカの女性参政権が形式上は全国的に認められても、実際には多くの女性が投票を妨げられ続けた。とくに南部諸州では、黒人女性に対して人頭税や識字テスト、恣意的な登録拒否などが行われ、ジム=クロウ体制のもとで人種差別的な選挙制度が維持された。また、先住民女性も市民権付与の遅れによって参政権行使に障害を受けた。これらの問題は、1930年代の世界恐慌ニューディール政策、さらに1950年代以降の市民権運動を通じて徐々に是正されていくことになる。

世界史の中のアメリカ女性参政権

アメリカの女性参政権は、同時代の他地域の動きと比較することで、その歴史的意義がより明確になる。ニュージーランドやオーストラリアなど一部の国々は合衆国より早く女性参政権を導入したが、合衆国は巨大な連邦国家として、広大な国土と多様な人種構成のもとで女性参政を実現した点に特徴がある。その経験は、20世紀のフェミニズム第2波や世界各地の女性解放運動にも参照され、選挙権だけでなく教育・雇用・家族法など広範な領域での平等要求へとつながった。こうしてアメリカの事例は、近代以降の世界史における民主主義とジェンダー平等の関係を考えるうえで不可欠な参照点となっている。