行基|朝廷ではなく民衆のための僧侶,奈良仏教

行基

行基は(668〜749)は、奈良時代の法相宗の僧で、現在の大阪府の河内の出身である。当時の奈良仏教鎮護国家として政治としての仏教という色合いが強かったが、その中で政府から離れ、民衆の中の僧侶として布教活動を行った。また、布教活動と並行して、40以上の寺院を建立し、治水や架橋など土木事業を各地に展開して社会貢献に尽力した。

行基

行基

目次

民衆の中の仏僧

行基は、信仰を広めただけでなく、社会事業に尽くした仏僧であった。畿内を中心に仏教の普及活動を行うが、訪れたれた地では、治水、灌漑、港湾、道路整備などの実績と伝承が残されている。また、貧民のために布施屋(無料宿泊所)も作っている。多くの人々が私度僧(正式に政府に認められない僧)が師事した。その実績は語り継がれ、衆生救済に尽くし、民衆に慈悲の精神を伝えた行基は、多くの民衆に慕われていた。

慕い追従する者はや やもすれば千を以って数ふ

布施屋

710年(和銅3)、平城京の遷都のときは、調・庸の運脚で披露した農民たちに同情して、布施屋という宿泊施設を建てる。

朝廷からの反発

朝廷は自らの管理下にない、寺院の外での行基の活動が僧尼令に反し、民衆を惑わしているとして弾圧した。その後、民衆の大きな支持を背景に朝廷に正式に認められ、孝謙天皇から大僧正の位を受けた。

妄(みだ)りに罪福を説き、朋党を合はせ構へ、(中略)詐つて聖道を称し、百姓を妖惑す

東大寺の建設

朝廷に屈せず、社会活動を続けた行基は、農民や豪族たちの支持を得た。また弟子や信者とともに寺院をはじめ、池や道、橋、布施屋など数多くの大規模な土木事業を実現させ、信頼を勝ち得た。これらの業績をっもって聖武天皇は、東大寺大仏造立に行基は起用され、日本初の最高僧位「大僧正」に選ばれた。

死去

行基は、東大寺大仏の建立に選ばれたが、その完成を見ることなく、81歳で生涯を終えた。その後、東大寺では、752年に虛舍那仏開眼供が行われ、その2年後に鑑真が戒壇院を設けている。

行基|民衆に仏教を広め大仏建立に尽力した僧侶

行基

行基(ぎょうき / ぎょうぎ)は、奈良時代に活動した日本の僧侶である。百済系渡来人氏族である高志氏の出身であり、朝廷が僧侶の活動を制限していた法を犯して民衆への布教を行い、橋梁の架設や灌漑施設の整備などの社会事業を推進した。当初は弾圧を受けたものの、その絶大な影響力を背景に、後に聖武天皇による東大寺大仏の造立を支援することとなった。日本初の「大僧正」の位を授けられた人物であり、後世には「行基菩薩」として尊崇を集め、日本各地に開基伝承を残している。

出自と修学の時代

行基は天智天皇7年(668年)、河内国大鳥郡(現在の大阪府堺市)に生まれた。父は高志才智、母は蜂田古虎自売とされる。15歳で飛鳥時代の官寺であった薬師寺に入り、法相宗の開祖である道昭や義淵に師事して唯識などを学んだ。道昭は遣唐使として唐に渡り、玄奘三蔵から直接指導を受けた高僧であり、井戸を掘り橋を架けるといった社会活動の重要性を行基に説いたとされる。行基が後年、単なる学問僧に留まらず、実践的な社会事業に身を投じた背景には、師である道昭の影響が極めて大きかったと推察されている。

民衆布教と朝廷の弾圧

当時の仏教は国家の安寧を祈念する「鎮護国家」の宗教であり、僧尼令によって僧侶が私に寺を離れて民衆に布教することは厳しく禁じられていた。しかし行基は、救済を求める多くの民衆のために各地で説法を行い、その教えに心酔した人々が行基に従って集団を形成した。これを危惧した朝廷は、養老元年(717年)に行基を「小僧」と呼び、その活動を違法として弾圧を開始した。しかし、困窮する民衆を具体的に救済する行基の人気は衰えず、むしろ「行基集団」と呼ばれる強力な組織へと成長していった。

社会事業と四十九院の設立

行基の活動の最大の特徴は、宗教的な布教と土木事業を一体化させた点にある。彼は信者たちの労働力と寄付(浄財)を組織し、交通の難所に橋を架け、農地拡大のための池(貯水池)を築造した。代表的なものに、日本最古のダム形式の池とされる狭山池の改修や、昆陽池の造営、淀川への山崎橋の架設などが挙げられる。また、貧困層や旅人のための宿泊・救護施設である「布施屋」を各地に設置した。さらに、活動の拠点として摂津、河内、和泉を中心に「四十九院」と呼ばれる道場を建立し、福祉と信仰のネットワークを張り巡らせた。

大仏造立への貢献

天平年間に入ると、疫病の流行や政変による社会不安に直面した聖武天皇は、仏教の力による国難突破を企図し、廬舎那仏(大仏)の造立を発願した。しかし、巨大な事業には莫大な資材と労働力が必要であり、民衆の協力が不可欠であった。そこで朝廷は方針を転換し、民衆に絶大な支持を得ていた行基を勧進職に起用して協力を仰いだ。天平15年(743年)、行基は弟子たちを率いて大仏造営の勧進を開始し、多くの民衆を動員して事業を推進した。この功績により、天平17年(745年)には日本で最初の最高位である「大僧正」を授けられた。

入滅と後世の信仰

天平感宝元年(749年)、行基平城京の菅原寺(現在の喜光寺)にて82歳で入滅した。大仏の完成(開眼供養)を見届ける直前のことであった。遺体は生駒山の東麓にある竹林寺で火葬され、往生院の墓所に葬られた。彼の死後、その功徳を称える「行基信仰」は全国に広がり、各地の古い寺院や温泉、土木遺構に行基の開基伝承が残ることとなった。また、中世には日本地図の原型とされる「行基図」の作成者としても擬せられるなど、文化・技術の象徴的存在として語り継がれている。行基の歩みは、権力から距離を置いた独自の救済活動が、最終的に国家事業を支える原動力となった稀有な事例である。

略年表

年(西暦) 主な出来事
668年 河内国(現在の大阪府)にて誕生。
682年 薬師寺に入り、道昭に師事。
704年 生家を改めて生馬寺(後の家原寺)とする。
717年 朝廷より民衆への私的な布教活動を弾圧される。
731年 弾圧が緩和され、活動が事実上認められる。
743年 聖武天皇の大仏造立の詔に応じ、協力。
745年 日本初の「大僧正」の位を授かる。
749年 菅原寺にて入滅。享年82。

関連人物

  • 聖武天皇:大仏造立を発願。行基の力を借りて国家事業を推進。
  • 光明皇后:聖武天皇の皇后。行基の社会事業と親和性の高い悲田院などの福祉活動を展開。
  • 鑑真:後に来日。日本の戒律制度を整え、行基後の日本仏教に大きな影響を与えた。
  • 道鏡:後代の法相宗の僧。行基が基礎を築いた奈良仏教界で勢力を振るった。

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