藤原不比等|中臣鎌足の第一子,大宝律令,養老律令

藤原不比等

藤原不比等は中臣鎌足の第一子として大和国(奈良県)にうまれた。大宝律令や養老律令の編纂を中心に、律令国家の確立に努めた。大宝律令の設立や平城京の遷都に深く関わり天皇家にたいし信頼を確立する。娘の宮子が文武天皇夫人として聖武天皇を生み、皇権を結ぶ特権的地位を確立した。以降、藤原家の反映は明治維新まで続く。720年、病にて死去する。

目次

藤原不比等の略年

659年 中臣鎌足の子として誕生
697年 娘の宮子を文武天皇に入内させる
701年 大納言に就任。この年、大宝律令を編集・施行
708年 右大臣となる
710年 平城京遷都。この遷都事業に不比等は深く関わっていた
718年 養老律令を編集
720年 病にて死去

大宝律令

700年(文武4)、藤原不比等は、文武天皇から大宝律令をつくることを命じられた。この大役を見事に成し遂げ、不比等は、朝廷から大きな信頼を得る。順調に出世していき、701年(大宝1)には大納言に、708年和銅1)には右大臣にまで出世した。このとき50歳で当時としては遅くの出世であった。

平城京の遷都、養老律令

藤原不比等は、大宝律令に続き、平城京遷都や養老律令の制定なども成し遂げる。

藤原不比等

720年(養老4)、藤原不比等が病に倒れると、元正天皇は病気の回復を願って、罪人を釈放するなどの処置をとった。しかし、回復にはいたらず、その年に72歳で他界した。藤原不比等の死を悼んだ天皇は、藤原不比等太政大臣にし、正一位を贈って敬意を表した。

天皇家とのつながり

藤原不比等には4人の息子に加え、2人の娘、宮子、光明子がいたが、彼女らを天皇家に嫁がせ、天皇家と深い関わりを築いた。なお、宮子は文武天皇の夫人に、光明子は聖武天皇の皇后になった。

藤原姓

中臣鎌足が賜った藤原姓は、後に不比等直系の子孫のみに名乗ることが許され、傍系の藤原氏は中臣姓に戻された。