石田梅岩
石田梅岩は、江戸時代中期の思想家で、心学(石門心学の祖。)主著『都鄙問答(とひもんどう)』、『斉家論』。石田梅岩は、貧しい農民の出身であったが、町人としての奉行する傍ら、儒学、仏教、神道、老荘思想など勉学につとめ、それらを総合した心学(石門心学)という学問を確立した。心学は町人としての道徳を説くもので、利潤追求を天理として肯定し、それを商人の正当な職分であると説いた。もともと商人は高く評価されなかった歴史背景の中で、石田梅岩の思想は、町人に広く支持された。
目次
石田梅岩の略年
1685 丹波国の農家の子として生まれる。
1695 京都の商家へ丁稚奉公に上がる。
1707 再び京都の商家へ奉公に上がる。
1729 京都に私塾を開く。
1739 『都鄙問答』を刊行する。
1744 『倹約斉家論』を刊行した後に死去する。
石田梅岩の生涯
石田梅岩は丹波国(京都府)の農家の次男に生まれた。裕福な家庭ではなかった。当時の慣習に従い、10歳で京都の呉服に丁稚奉公したが、主家の経営不振で極貧の中、15歳で帰郷することになる。その後、22歳で再び上京し、呉服商に仕え、商人としてよく働きながら読書に励み町人になろうとしたが、独学を好み神道・信教・仏教などの諸書を読みあさり、思想の側面から商人の道・人の道を求めようとした。
42歳の時、主家を去り学問に専念し、2年後、京都の自宅に「聴講自由、座席無料」を掲げて自宅で塾をいた。最初は人もあつまらなかったが、梅岩は聴講者が一人でも講義を続けたと伝えられている。その講話はきわめて平易で、次第に広く民衆のあいだに広まり、心学の流行のもととなった。弟子は400人を超えるといわれているが、その中には、後に梅岩の思想を広める手島都庵らがいる。この後、60歳で死去するまで、独り身で自炊生活をしながら道を講義し、それをみずから実践した。
町人の思想
石田梅岩の思想は、封建的な身分秩序を否定するものではなかったが、これまで罪悪視されていた商人の営利活動を倫理的に肯定し、町人の誇りと社会的責任の自覚を強調するものとして画期的であった。
石田梅岩が出た江戸中期は商業活動が発展し、町人が力を拡大していった時勢も手伝い、町人に広く親しまれた。
心学(石門心学)
江戸時代中期に石田梅岩が開いた、庶民のための平易な生活哲学を心学という。心学は、「神・高・仏・打って一丸滅した」といわれるように、儒教・仏教・神道などの教えを石田梅岩が生活体験に基づいて融合した学問で、日常に即した経営倫理である。
当時他人の作った物を動かすだけで利潤追求しているとして蔑視されていた商人の営利活動を、天理として肯定し、正直や倹約を守り、知足安分の生活態度で、勤勉に職分に励むべきであると説いた。また、武士に対して町人の存在意義を主張する積極性を持ったものの、封建制度には肯定的で、封建秩序への順応を教化する役割も担っている。
なお、心学という言葉は、元来は陽明学の説く「心即理」に基づく日常生活における手近な実践の学をいったが、ここでは町人層に倫理的自覚を持たせる実践を求めたものである。
商人の売買の利益は、武士の俸禄えと同じである。売買の利益がなければ、武士が俸禄なしで仕えるようなものである
商人は、左の物を右へ取り渡しても、正直に利益を取る。不正をして取るのではない。鏡に物をうつすように、隠しだてすることはない。商人は、正直に利益を取ることによってなりたち、正直に利益を取るのは商人の正直である。利益をとらなければ、商の道ではない。
正直
正直とは、私欲を手放して正しい心をもつこと、公私を混同せず、利益を独占せずに、「先も立ち、我も立つ事」を考えて正直に相手のためになることを尽くすことである。正当な仕方で利益をあげることが商人にとっての正直であり、商売において「先も立ち、われも立つ」という互助と公正の精神を説くもので、石田梅岩は、正直を、商人の道をなす中心的な徳目としてあげた。
倹約
倹約とは無駄をなくして節約する努力によって余裕を生み出すこと。分相応であることを倹約の常とした。倹約は正直の徳と深く結びつき、単に物を節約するだけではなく、「ときにあたり法にかなふやうに用ゆる事」で、物と人とを有効に生かす原理であるとした。
『斉家論下』からの引用
倹約をいふは他の儀にあらず、生れながらの正直にかへし度為なり。天より生民を降すなれば、
万民ことごとく天の子なり。故に人は一箇の小天地なり。
小天地ゆへ本私欲なきもの也。
このゆへに我物は我物、人の物は人の物。
貸したる物はうけとり、借たる物は返し、毛すじほども私なく、
ありべかかり(ありのまま)にするは正直なる所也。
此正直行はるれば、世間一同に和合し、四海の中皆兄弟のごとし。
我願ふ所は、人々こゝに至らしめんため也。
「世を治る道は、倹約を本とす」といへり。蓋倹約ということ、世に多く誤り吝き事と心得たる人あり。
左にあらず。険約は財宝をほどよく用ひ、我分限に応じ、過普及なく、物の費捨る事をいとひ、時にあたり法にかなふやうに用ゆる事成べし。
知足安分
知足安分とは、封建的な身分秩序の存在を認めた上で、その中でおのれの職分を受け入れて満足し、正直と倹約に努めて、分を超えない営利追求を心がけることを説いた。「各人は足るを知って分に安んぜよ」とのべ、知足安分は、封建制の身分秩序の枠の中で、商人の道の正当性を主張するものであった。
『都部問答』
『都鄙問答『』の中で、問答形式により町人道徳を平易に説いた。この書の中で、「商人の買利は士の禄に同じ」という言葉を残し、当時の商人蔑視に対して、商人の営利行為の正当性を主張し、正直と倹約を中心とする商人の道を説いた。