戊午の密勅|井伊直弼

戊午の密勅

戊午の密勅(ごごのみっちょく)とは、日米通商航海条約を結んだ幕府に対し、尊皇攘夷を目指す水戸藩士が幕府を介さず直接、朝廷から勅許をもらい、それを根拠に各藩を尊王攘夷に命じた。一方、幕府側の井伊直弼は朝廷の政治介入に激怒し、安政の大獄と呼ばれる大規模な弾圧が起こる。

井伊直弼

井伊直弼

1856年、将軍の跡継ぎ問題

安政三年(1856)、十三代将軍徳川家定(いえさだ)が身体が弱く子どもも設けなかったことから、その跡継ぎに対して、紀州徳川家の徳川慶福派と、一橋慶喜派との政治的対立が起こる。
紀州徳川家の当主慶福(よしとみ)派は譜代大名の多くによって支持され、慶福と将軍家定との血縁を重視した。
一橋慶喜(前水戸藩主徳川斉昭の子一橋慶喜)派は、親藩と外様大名によって支持され、慶喜の知的さに期待した。
両派は朝廷の同意を得るため、京都手入れと呼ばれる、公家を通しての政治活動を行なった。

通商条約の締結の勅許の失敗

またアメリ力が派遣した総領事タウンゼントやハリスに通商条約の締結をせまられた老中堀田正睦は、通商条約の勅許をもとめて京都に行くが、勅許を得ることはできなかった。

井伊直弼の独断

安政5年(1858)4月、譜代大名筆頭の彦根藩主井伊直弼が大老に就任した。井伊直弼は朝廷からの勅許を待たず、独断でアメリカと修交通商条約に調印した。さらに将軍家定の継嗣を紀州藩主徳川鹿福(のち家茂)に決定した。井伊直弼の強硬策に、徳川斉昭、徳川義恕(尾張藩主のち慶勝)や松平慶永(福井藩主)らは不時登城して、条約調印に閲して井伊直弼を追及した。

井伊直弼の弾圧

7月、井伊直弼は不時登城をかどに、徳川斉昭に急度慎みを命じ、 徳川慶恕、松平慶永に隠居・急度慎みを命じている。また幕府内の一橋派の者は左遷された。

戊午の密勅

八月にはいると朝廷は水戸藩に勅諚を与え、尊皇攘夷の実現をめざして幕府を助け、諸藩と協調して努力するように命じた。朝廷が幕府を通さずに、各藩に命令を下すことは異例であった。これを「戊午の密勅」と呼ばれる。京都在勤の水戸藩士、鵜飼吉左衛門が受け取り、忰の鵜飼幸吉と日下部伊三次(薩摩藩士。もと水戸藩士)によって江戸の水戸藩邸に届けられた。

水戸藩、戊午の密勅の返還

幕府は、戊午の密勅が出されたことを間もなく知り、これを幕府に差し出すよう水戸藩にもとめる。水戸藩内ではこれを受け戊午の密勅をどうするかに議論が起こったが、水戸藩の主流は戊午の密勅の返還を押した。一方、尊皇攘夷派は戊午の密勅の返還に反対した。藩内ではその主張が却下されると、農民らに呼びかけて水戸街道の長岡宿(茨城県東茨城郡茨城町)などに結集、軍事的に戊午密勅の返還を阻止しようとした。

桜田門外の変

桜田門外の変

安政の大獄と桜田門外の変

大老井伊直弼は、戊午の勅許をきっかけに安政の大獄と呼ばれる大規模な弾圧を行う。多くの志士や尊王攘夷派は捕縛、処刑にされる。この弾圧に抵抗する水戸藩士によって井伊直弼は暗殺される。(桜田門外の変

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