桜田門外の変|井伊直弼,安政の大獄

桜田門外の変

桜田門外の変とは、万延元年(1860年3月3日)、午前9時、江戸城桜田門外で大老井伊直弼が暗殺された事件。水戸浪士17人に加えて薩摩藩の有村次左衛門の計18人が鉄砲の銃声を合図に井伊直弼が載っている籠を襲撃した。この事件から幕府の中心力は急速に失われる。

桜田門外の変

桜田門外の変

井伊直弼の危機管理

安政の大獄から、多くの政敵を作り出しており、水戸藩の尊皇攘夷派による暗殺の可能性は十分に予想できていたが、幕府の従士(警護)の人数は変えることはできない、として、その規則を尊守した。

水戸の浪士

暗殺の前夜、水戸の浪士らは暗殺の前夜に品川の相模屋に会して、最後の打ち合わせをしている。決別の宴を行なっている。翌日、明け方から大雪の中、水戸浪士は芝愛宕山(港区)に集結した。武鑑を片手に、登城する諸侯を見物するふりをして、彦根藩邸と桜田門の間で大老の行列の接近を待った。

悪天候

井伊直弼は供迴りの徒士以下26人、総勢60余人の行列で、大雪のため、徒士は全員雨合羽を着し、刀には柄の部分に柄袋をつけ、雪水の浸透を防いでいた。この悪条件のため、襲撃にあった際、敏速な動きや抜刀を妨げることになり、対処が大幅に遅れてしまった。

暗殺の実行

浪士側はまず、森五六郎が駕籠訴(かごそ)をする様で行列に近づく。駕籠訴とは、幕府の有力者に訴状を書いた手紙を渡すことで、渡した本人は罰せられたが、訴状が受け入れられれば、調査がされることがあった。近づくとすぐ、行列の前衛にいきなり斬りかかった。ほぼ同時に、黒沢忠三郎から銃声が1発撃たれると、浪士側が一斉に斬り込みを開始した。この1発は直弼の籠狙うと同時に、開戦の合図でもあった。合計で二発撃たれたが、一発はそれたものの、もう一発は井伊直弼の腰に当たったと言われている。籠を守ろうとした井伊直弼方の侍を切り倒すと、無防備となった籠に襲いかかり、瀕死の井伊を引きずりだして首をとった。この間、せいぜい10分程度だったと言われている。

井伊直弼

井伊直弼

被害状況

井伊直弼の腰を一発の銃弾が打ち抜き、籠の両脇から刺され、最後は、有村の手によって首を切られた。井伊直弼の家臣26人は、死亡者8人、ケガ人9人を出したが、刺客側の18人は死亡者1人だけであった。

井伊直憲

彦根藩藩主の井伊直弼が突然死したため、通常、藩の取り潰しが行われるが、幕府は政局が不安定になることをおそれ、息子の直憲の跡目相続を許した。しかし、直憲は幼く、4人の家老が彦根藩の政治を牛耳ることとなる。

井伊家の失墜

文久2年(1862)、尊皇攘夷派で一橋慶喜や松平慶永(松平慶永)の復権を背景に岡本半介は、藩主である井伊直憲と会談する。そして井伊直憲は、藩主の名のもとに、藩の抜本改革のため、4人の家老を処分し、入牢や斬首を行う。尊王攘夷派は実権を握ったが、徳川四天王の井伊家が尊王攘夷派であることを嫌った幕府は、彦根藩に厳しい処分を下し、藩領30万石のうち、10万石の減封を言い渡した。また京都守護職の取り上げも命じた。

川柳や狂歌

井伊直弼が日中堂々と暗殺されたニュースは当時衝撃的に受け入れられ、多くの川柳や狂歌などが作られた。「井伊掃部(いいかも)と雪の寒さに首をしめ」(井伊家の掃部頭(かもんのかみ)と鴨をかけている)

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