林羅山|江戸初期の儒学者,朱子学上下定分の理,存心持敬

林羅山

林羅山は、江戸初期の儒学者。藤原惺窩の弟子。家康・秀忠・家光・家綱の四代の将軍に仕えた。主著は『春鑑抄』『三徳抄』『儒門思問録』『本朝神社考』。
朱子学は理気二元論に基づき、存在論、認識論から人間のあり方としての道徳を論じる体系的な思想であるが、林羅山は朱子が説いた理を人間間係における道徳の根本として強調した。理は天地万物をあらしめている原理であり、君臣上下の関係も理に基づいている。林羅山の思想は、封建社会における身分秩序を正当化する一方で武士に社会の指導者としての自覚をもたせた。

目次

林羅山の略年

1583 京都に生まれる。
1595 京都建仁寺に入る。
1597 建仁寺より帰宅し、独字で朱子学を学び始める。
1604 藤原惺窩に入門する。
1605 徳川家康に謁見。
1624 徳川秀忠に徳川家光の侍講を命じられる。
1629 民部卿法印を授かる。
1630 上野忍岡に学寮(先聖殿)を建設する。
1635 武家諸法度改正を起草する。
1648 910石余を給される。
1657 死去。

林羅山の生涯

林羅山は、京都四条の町家に生まれ、幼時から建仁寺に入り、仏書・儒教に親しんだ。出家をすすめられたが拒否して独学自修した。朱子の『四書集注』を読んだことをきっかけに朱子学に傾倒した。さらに21歳の時、藤原惺窩に師事し、強い影響受けた。翌年、藤原惺窩のすすめで徳川家康にに二条城で謁見し、以後、家康ら家綱まで4代の将軍に仕え、朱子学の官学化を推進するとともに、幕府の法度、典礼、外交などにかかわった。
47歳の時、上野忍岡に、後の昌平黌(昌平坂学問所)のもととなる学寮(先聖殿)を建て、多くの門人を育てるとともに、朱子学を幕藩体制における秩序維持の精神的支柱とするために、仏教や老荘思想、キリスト教を排撃した。また学者としての研究は漢籍の古文書学、儒学、神道、国文学、植物学など広範囲に及び、辞書、随想、紀行文も著している。

仏教・キリスト教の排斥

林羅山は、古来精神的指導権をにぎっていた仏教にかわり、儒教の精神的指導権を確立することをめざした。また、キリスト教や老荘の学もその例外ではなかった。
仏教排擊の理由は、儒教が人倫的組織に即して道を実現しようとする公の立場に立つものであることに対し、仏教の解脱は実践的ではなく、人倫の道の実現から離れたものであったからである。また仏の道は家の生活を破壊し、公の生活から逃避する私事であるからであった。
また、キリスト教の排斥は、キリスト教を背景に西欧の植民地政策に対し、これ以上のキリスト教の布教に懸念していた幕府にとっても都合のよいものであった。
林羅山は、儒教の人倫思想をもって仏教キリスト教にかえようとするとともに、新しく樹立された江戸幕府の制度を儒教によって基礎づけること、戦乱の時代を通じて自覚された武士の道義的意識を儒教の道徳に結びつけることをねらった。そして、林家の学を幕府の官学とするとともに江戸時代を通じて儒学の興隆するもとを開いた。

五倫

五倫は、君臣・父子・夫婦・長幼・朋友の身分血縁関係のことで、儒教では、これを基本に、家族組織から政治体制までを貫く社会秩序を構成している。林羅山は、この人間関係が社会のあるべき秩序となるとし、そこに、「上下定分の理」があるとした。

上下定分の理

上下定分の理とは、君臣上下の関係は、天地間の自然を貫く道理(天理)と同じように定められているという考え方。
林羅山は、先王は自身が定めた礼によって、人の心を治めたとのべ、この場合の礼とは、「天の道」に基づいて定めた礼儀や法度であり、それは、上下の差別である。それについて、林羅山は、天は尊く地は卑しく、天は高く地は低く上下差別があるように、人においても、君子は尊く、民は卑しいのだとした。
この「上下定分の理」を、規範として具体化したものが礼(礼儀)であるから、天理にかなった生き方とは、君臣・父子・夫婦・兄弟などの上下差別の礼をわきまえて、その秩序に従うことなのだと説く。朱子学における「理」は、本来、万物の中に存在するものであることから、それは、人間社会にも当然あるものである。それが身分秩序というものだと林羅山は主張し、封建社会の身分秩序を「理」を用いて基礎づけた。

天は尊く地は卑し,天は高く地は低し、上下差別あるごとく,人にもまた君交は尊く、臣は卑しきぞ
(天は上にあり、地は下にあるのは天地の礼(秩序)である。この天地の礼を人は生まれながら心にそなえているから、万事につき上下前後の順序がある。この心を天地におし広めれば,人問社会の君臣や上下の秩げは乱れることはない。)

敬とは、自己の欲望を抑え、日常の言語・動作をつつしみ、常に天理と一体となろうとする心持ちのこと。林羅山は、「敬」を「うやまう」ではなく「つつしみ」の意味で用いている。自己の内面に私利私欲が少しでもあることを戒め、常に道(理)と一つであることを求めるきびしい心のあり方であり、人格を高貴に保たなければならない。敬は、朱子学で語られたもっとも重要な徳であり、武士たちに深い共感をもって受け入れられた。

礼とは、「敬」の行動の指針としての規範であり、五常として示された「序」(序列・秩序)を守ること。
「上下定分の理」においては、人間社会も自然と同じように「理」によって尊卑上下の秩序が決定されている。そこで常に「敬」を心に保ち、秩序に従って生きること必要であるが、この「敬」を行動に移す際の指針として「礼」や「躾」がある。「礼」には本来「礼儀三百威儀三千」と呼ばれる細かな約束事があるが、その思想の中心には、常に心に「敬」をもつことが「礼」であると強調されている。

  • 礼:心に「敬」をもつこと
  • 躾:他人のことを先にして、自分のことを後回しにすること。

存心持敬

存心持敬とは、常に心の中に敬を持つことを心がけ、さらに上下定分の理を身をもって体現するということ。朱子が説いた『居敬(きょけい)』と同義語である。

「春鑑抄」存心持敬

礼と云は、根本は心に敬を云ぞ。心に敬によりて万事について、躾と云ものがあるぞ。躾と云ものがあるそ。躾と云も、兎角人をさきだて、己をのちにするが躾也、礼也。論語、「礼云、礼云。玉帛云乎哉」と云は、礼は敬うが本であるぞ。あながちに御礼にまいるときに、宝や帛や識や或はを、礼とは云ふまひぞ。それは心に敬ふと云のしるしに、玉帛・金銀を持ちてゆくぞ。また玉帛・金銀等、それぞれに応じて土産を持ちてゆかぬも、むかひを軽しむるになるほどに、さもなふては敬の心があらはれぬぞ。しかれども、まづ礼はうやまふが本であるぞ。

天地合一

人間の本来の心に立ち返れば、天と通じて天人合一となり、それは天地万物の道理(天理)と一体化することでもある。

林派朱子学

林羅山の死後、林家は代々儒官として政府に登用されて林派朱子学を形成した。1690年、網吉の援助で江戸の昌平坂に林家の私塾が移されて湯島聖堂学問所となり、1797年に昌平坂学問所として幕府公式の学問所となったである。