長屋王|藤原四子によって滅亡,長屋王の変

長屋王

長屋王は大和国(奈良県)で聖武天皇の孫である。藤原不比等の死後、高市皇子の子で元明天皇とも近かった長屋王が皇族の主導的役割を果たした。太政官を主導し、皇親政治を推進した。文化人としても優秀で、多くの書写や詩歌を残している。『懐風藻』に3首収録されている。藤原四子との争いの末、無実の罪をかせられ、長屋王の政変で追い込まれ、自害した。

目次

長屋王の略年

684年 高市皇子の子として誕生
704年 藍位の制適用第1号
714年 封100戸を加増され、親王と同等の地位を得る
720年 藤原不比等の死去により政権を握る
723年 長屋王の手により「三世ー身の法」が出される
724年 聖武天皇即位により左大臣に就任
729年 長屋王の政変により自害

長屋王

長屋王は聖武天皇の孫にあたり、藤原不比等の死後、左大臣に就任し、太政官(だいじゅうかん)の首班となり、政治の中枢にいた。

農業改革

農民に対する負担を軽減するため、良田百万町歩の開墾計画や三世一身法設定など、当時進行していた口分田の荒廃化に対する政策を行った。

藤原四子の台頭

一方、藤原不比等の子、武智麻呂(むちまろ)や宇合ら藤原四子も政権の中枢へ進出した。天皇との外戚関係を利用して権力を握ろうとする藤原氏と長屋王との間で緊張感が高まっていた。

基王の死

聖武天皇の妃で四子の妹でもある光明子が天皇との間に基王(もといおう)を産み、生後まもなく立大子された。基王の生誕により、藤原氏は安泰であったものの、基王は1年たたずに亡くなると一転、外戚関係が危機に陥った。

長屋王の政変

長屋王の台頭を恐れた藤原氏は、長屋王が基王を呪詛し、国家を傾けようとしたと密告し、反逆の罪をねつ造した。長屋王が無実の罪を着せられた。729年、藤原宇合(ふじわらのうまかい)率いる軍勢が長屋王の邸宅を取り囲むと、長屋王とともに膳夫王(かしわでおう)ら4人の子どもたちと、妃の吉備内親王も自害して滅亡するに至る。

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