新選組(新撰組)|新選組の歴史とその誕生

新選組(新撰組)

新選組は、1863年、近藤勇・土方歳三らが組織した浪士組。京都守護職の指揮下に置かれ、池田屋事件など攘夷派制圧に活動した。戊辰戦争で敗北する。剣客として山南敬助,沖田総司,永倉新八らが活躍した。

新選組

新選組

目次

新選組の略年

  • 1863年1月 家茂上洛の護衛のための浪士募集のふれが出る
  • 2月4日 小石川伝通院に浪士約250人集まる。
  • 2月8日 近藤勇ら試衛館のメンバーも参加する。江戸にむけて出発する
  • 2月8日 京都の壬生村新徳寺に入る。同夜、清河八郎が将軍護衛軍を攘夷に転換することを伝える
  • 2月8日 清河八郎が江戸に帰ることを提案するが、芦沢・近藤らは反対し京都にとどまることを決意する
  • 3月3日 芹沢・近藤グループ、取扱に京都残留を願い出る
  • 3月10日 京都残留組、京都守護職松平容保に身分保証を求める嘆願書提出する
  • 3月12日 正式に松平容保の預かりとなる
  • 3月2日 清河八郎ら攘夷軍、江戸へ向けて出発する
  • 8月12日 芹沢、大和屋庄兵衛宅を焼打ちする
  • 8月18日 8月18日の政変に参加。後日「新選組」の名を賜る
  • 1864年6月4日 長州藩の不逞浪士から京都焼き打ち計画が発覚する
  • 6月5日 新選組はじめ、会津藩の松平容保ら捜索、池田屋事件が起る

局中法度

新選組のメンバーが守るべき規範を局中法度という。いつ、誰が制作したかは不明。死の掟といわれるほど、厳しいものであった。

一、士道に背くまじき事
一、局を脱するを許さず
一、勝手に金策致すべからず
一、勝手に訴訟を扱うべからず
一、私の闘争を許さず
上の条を相背き候者切腹申しべく候也

試衛館

試衛館は、近藤勇の天然理心流の剣術の道場である。試衛館の出身者が新選組の幹部を務めた。沖田総司、土方歳三である。

虎尾の会

日米修好通商条約の調印が明らかになると、外国勢力を排他しようとする、攘夷の気運が高まることになる。加えて弾圧を行った井伊直弼桜田門外の変により暗殺されると、幕府の衰退が謙虚になる。出羽国清川村の尊攘派の清河八郎は尊攘倒幕を目指す会として虎尾の会を立ち上げた。山岡鉄舟、伊牟田尚平(いむたしょうへい・薩摩藩)名前を連ねた。

寺田屋

寺田屋

寺田屋騒動

1862年、薩摩島津久光が独自の改革案を孝明天皇に提案するために上洛したが、この上洛を倒幕のための入京と考えた全国の浪士たちが京都に集結する。それに激怒した島津久光は説得を行ったが、決裂し、刺客を送ることになる。いわゆる寺田屋騒動が起こり、清河八郎の挙兵は頓挫した。

浪士組の結成

挙兵に失敗した清河八郎は江戸に戻り、虎尾の会の山岡鉄舟を通して幕臣の松平主税助に働きかけ、浪人を募って浪士組(隊)を結成することを提案した。寺田屋騒動以来、京都では尊攘派が集まり、懸念した幕府は、江戸の浪士が京都の浪士を制圧できるという清河八郎の建言を受け入れ、浪士の募集を決定した。1863年3月に予定されている将軍上洛の護衛として浪士の募集を行った。集まった浪士の中には、のちの新選組の主力となる近藤勇やその門下の土方歳三、沖田総司らがいた。

浪士の反旗

1863年2月、清河八郎の下に集まった浪士たちは中山道を京都に向かって出発し、同年2月8日、京都洛西の壬生村新徳寺に入る。その夜、集まった浪士を前に清河八郎は、幕府の命令で京都に来たもののそれを反故にし、攘夷の決行をする旨の演説を行うが、多くの浪士はこれに同意した。思わぬ反旗に驚いた幕府は生麦事件で対外的危機を迎えていることを理由に、即刻、江戸に清河八郎ら浪士組を戻すことを決定した。京都に残った浪士で壬生の浪士組を結成し、これが新選組の前身となる。

壬生寺

壬生寺

壬生寺

壬生寺は、新選組ゆかりの寺で、境内は新選組の兵法調練場に使われたという。境内東方には隊士の墓などもある。

壬生の浪士組

清河八郎の江戸帰還に異議を唱え、京都に残留した芹沢鴨、近藤勇らのグループ3人は壬生浪士組を結成した。京都守護職松平容保に訴え、会津藩預かりとなる。しかし、会津藩からの手当ては不十分で、局長筆頭の芹沢鴨が会津藩預かりの身分をいいことに、豪商の鴻池から200両を脅し取る、糸問屋の大和屋の蔵をめがけて砲撃するなど、過激な対応を行う。松平容保、近藤勇、土方歳三らはその横暴な行為に反感を覚えた。

新選組の誕生

そうした中、長州藩主体の尊攘派を京都から追放した八月十八日の政変がおこる。長州藩の武力抵抗に備えるため、薩摩・会津両藩が出兵し、壬生浪士組にも出動命令が出された。そして、八月十八の政変ののち、武家伝奏から壬生浪士組に「新選組」の名称が与えられ、ここに新選組が生まれる。なお、新選組という名前になったのは朝廷側が八月十八日の政変にさいし、御所の警護が浪士の名を冠した者達に任せるのが体裁が悪いと考えたためである。
この1カ月後、脅迫や横暴がひどかった芦沢鴨が土方歳三、沖田総司らによって就寝中に暗殺され、ほかにも芹沢派の浪士数人が殺害された。翌朝、近藤勇は守護職に芹沢派の粛正を届けた。これにより近藤勇らのグループを中心に体制がととのい、朝廷や町奉行所からも正式な警察隊として認められ、「誠」の旗のもと、新選組が誕生した。

新見錦・山南敬助の斬首

局長を務めていた新見錦は御用金と称して富豪を脅迫して得た資金を私利私欲で使い、さらに隊の資金が紛失していた。これをきっかけに公金を横領したことで斬首される。さらに副長の山南敬助も、一時は脱走したものの、まもなく捕らえられ、斬首された。

過激派の探索

八月十八日の政変から、主導権をもった公武合体派は、京都にいる過激派の摘発を行う。新選組はその任務を任され、不逞の浪士を捕まえるため京都中を駆けまわった。多くの長州藩の藩士が京都の枡屋に潜伏していることをつかみ、会津藩に報告していた。枡屋には熊本藩士の宮部鼎蔵(みやべていぞう)、長州藩士の吉田稔麿(よしだとしまろ)らが潜伏していた。

京都焼き打ち計画の発覚

1864年6月4日、新選組は捕縛した長州藩士から、伏見・大坂にも過激派の浪士がいることや鞍馬口への放火計画の情報をつかみむ。6月5日、新選組は会津藩に過激派の浪士探索の協力を要請する。結果、注意人物であった炭新商人・柳屋の湯浅喜右衛(ゆあさきえもん・古高俊太郎)を捕縛する。枡屋の蔵からは武器や弾薬が見つかり、祇園祭の宵宮に乗じて京都市中を焼き払う計画が判明した。

池田屋事件

1864年6月5日、焦った新選組や会津藩の松平容保、一橋藩、彦根藩、淀藩、桑名藩、松山藩らの与力、同心らも検閲のため、京都市中を奔走した。
新選組は会津藩の到着を待たずに、局長の近藤勇らが鴨川西岸を、土方歳三、井上源三郎らが鴨川東岸を探索する。やがて近藤隊が池田屋で密会が開かれていることをつきとめ、近藤隊は正面から御用改めに来たことを告げるが、これに驚いた池田屋の主人が2階に上がり、あとを追った近藤隊は浪士の20人余りと戦闘状態に陥る。近藤隊に続いて土方隊・井上隊が駆けつけ、約2時間で終結した。(池田屋事件)。

近藤勇

近藤勇は、武蔵国多摩郡出身新選組局長。「試衛館」に入門し、のちに道場主となる。池田屋事件などで活躍するが、戊辰戦争の際に下総で捕らわれて刑死する。

土方歳三

土方歳三は、武蔵国多摩郡出身で、菜の行商をしながら武士への道を目指した。近藤勇と出会い、彼を 支えていくようになる。新選組副長。戊辰戦争で活躍し、五稜郭の戦いで銃弾に倒れる。

山南敬助

山南敬助は仙台出身。新選組副長を務めた。脱藩後、江戸で「試衛館」の門人となり、 近藤勇らと行動をともにするようになる。温厚で人望もあったが、脱走し、切腹する。

沖田総司

沖田総司は、わずか9歳で「試衛館」に入り、20歳で免許皆伝を与えられた。新選組一番隊組長。池田屋事件で活躍したが、近藤勇の斬首から2カ月後、肺結核のため死亡する。

永倉新八

永倉新八は、松前藩の出身で浪士組に参加し、新選組の中核をなす隊士として活躍した。新選組二番隊組長。池田屋事件でも奮戦する。明治時代になると北海道で過ごし、大正4(1915)年に亡くなる。