新渡戸稲造|思想と哲学,武士道,国際連盟事務次長

新渡戸稲造 にとべいなぞう 1862~1933

新渡戸稲造は明治末期から昭和初期の教育者、農政学者。国際連盟事務次長として活躍するなど、国際平和のために献身した。主著は『武士道』。
新渡戸稲造は、明南部藩(岩手県)の武士の子として盛岡に生まれ、内村鑑三らとともに札幌農学校に学び、キリスト教の洗礼を受けた。その後、アメリカ合
衆国やドイツに留学し、農学や経済学をおさめた。教会や聖書ではなく、魂の内なる光を重視するプロテスタントの一派であるクェーカーの信仰に強く共鳴し、帰国後、母校の教授、京大や東大の教授、東京女子大学長などを歴任し、キリスト教に基づく人格主義・理想主義の教育に尽した。キリスト教と日本文化との融合、日本文化の海外への紹介につとめた。

目次

新渡戸稲造

新渡戸稲造

新渡戸稲造の生涯

新渡戸稲造(幼名 稲之助)は1862.8.3(新暦9月1日)岩手県盛岡に、南部藩士新渡戸十次郎と勢喜(せき)との三男(末子)としてまれる。(上には兄二人姉四人)祖父、父十次郎は開拓事業に尽力した。十次郎が仕事の関係で手入れた舶来の品(オルゴールやマッチ)に影響を受けて育った。父の死後明治4年、叔父太田時敏の養子となって上京、東京外国語学校(一高の前身)に学んだが、明治10年(1877年)9月、16歳で札幌農学校2期生として内村鑑三、宮部金吾らと共に入学した。札幌農学校では、翌1878年4月、2期生はクラーク博士が書き残していった「イエスを信じる者の契約」に期生より署名を求められ、新渡戸は真っ先に署名したといわれる。そして署名した二期生のうち、7名が6月、札幌を訪れたハリス宣教師より洗礼を受けた。
1881年(明治14年)札幌農学校卒業後、開拓使(札幌)に奉職、1883年9月東京大学へ入学英文学、理財学(経済学の旧称)、統計学を学んだが、翌1884年8月、同大学を退学、9月にはアメリカのアラゲイニ大学(フィラデルフィア州ミードヴィル市)に私費留学、10月にはジョンズ・ホプキンス大学へ転学し、経済学、史学を研究した。この間に彼はクエーカー教徒となる。次いでドイツのボン、ベルリン、ハレ大学で学び、1890年ハレ大学より学位を受けた。1887年5月アメリカ人マリー・エルキントン嬢(MaryPattersonElkinton,1857-1938)と知り合い、1891年フィラデルフィアで結婚、札幌に帰国した。新渡戸は札幌農学校で始めてキリスト教に接する機会をもった。札幌農学校教授時代に過労からその後カリフォルニアで病気療養中に「武士道」を執筆。明治三十三年(1900)武士道初版出版。その後、第一高等学校校長、東京大學教授、東京女子大学初代学長、国際連盟事務次長、等多くの要職を歴任。昭和八年(1933)カナダのヴィクトリア市で客死した。

『武士道』

1899年明治32年にアメリカで『Bushido-the soul of japan(武士道)』として出版。日本の美徳を世界に知らせるため、英字で書かれている。キリスト教と矛盾しない、むしろ完成するものとしての武士道および日本の伝統的価値を世界に広報するものとして執筆。武士道は、過去も現在も日本を生かす精神であり、それはキリスト教を受け入れる素地になると説いた、この書の序に『日本で宗教教育がないならどのように道徳を押しているか』というベルギーの法学者ラブレーの問いに答える課程で武士道を見直したとする旨が書かれている。内容は、武士道の起源と源泉、性格と教え、民衆に及ぼした影響、武士道の未来に基いて書かれている。

約十年前、私はベルギーの法学大家故ド・ラヴレー氏の歓待を受けその許で数日を過ごしたが、或る日の散歩の際、私どもの話題が宗教の問題に向いた。 「あなたのお国の学校には宗教教育はない、とおっしゃるのですか」と、この尊敬すべき教授が質問した。 「ありません」と私が答えるや否や、彼は驚いて突然歩を止め、 「宗教なし!どうして道徳教育を授けるのですか」と、彼は繰り返し言ったその声を私は容易に忘れない。

『武士道』のルーズベルトアメリカ大統領への影響

『武士道』は出版されてから国際的な大きな反響を呼ぶ。『武士道』を読んだルーズベルト米大統領は感銘を受け、大量に知人に配った。日露戦争講和のポーツマス会議を大統領が引き受けたのも少なからず『武士道』の影響が大きかったと言われている。

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