後漢
後漢は、新を倒した劉秀が再建した漢王朝である。都は洛陽におかれ、東漢とも呼ばれる。後漢は、家族連合政権の性格を持ち、前半は政治的に安定し、後半は積極的な政策を行い、西域経営を進め、シルクロードと呼ばれる、西側との交易の道を確立した。2世紀以降、幼少の皇帝がつづき、宦官・外戚が権力を握り、政治は乱れた。黄巾の乱で衰退し、三国の魏に滅ぼされた。なお、後漢に対して、新の建国以前の王朝が前漢とよばれる。
初代皇帝劉秀
劉秀(光武帝)(前6-後57)は、後漢の初代皇帝である。在位は25-57年である。漢の一族で、南陽(河南省)の豪族の援助を背景に、赤眉の乱に乗じて挙兵し、農民や豪族とともに王莽を敗死させ、新を滅ぼした。対外的には消極策をとる一方、前漢の諸制度を復活し、儒教を奨励して文治主義をとり、もっぱら内政の充実に努めた。
洛陽
洛陽は後漢の都である。河南省北西部の都市、以後の魏・西野・北魏の都となった。
第2代皇帝 明帝
明帝(28~75)は、後漢の第2代皇帝(在位57~75)である。匈奴征討や西域進出など、積極的な対外策を行った。仏教の伝来、班固や蔡倫の活躍など、文化的にも充実期であった。
第4代皇帝 和帝
和帝(在位88~105)のとき、班超を(32~102、91年に西域都護)西域都護に任命してカスピ海以東の50あまりのオアシス都市国家を征服、97年には甘英を大秦国(ローマ帝国)に派遣し東西交渉の利益確保をめざしたが、計画は難航した。
中央アジアの征服
後漢は光武帝以下数代は賢帝が続き、善政を行った。国力が回復すると、積極外交に転じ、匈奴の分裂に乗じて南匈奴を服属させ、北匈奴を北方に追い払って、再び中央アジアを支配した。
班超
班超は後漢の武将である。歴史家の班固の弟で、73年の北匈奴征討に従軍してから30年あまり西域経営に活躍した。91年和帝より西域都護に任ぜられ、50余国を服属させ、後漢の力を西域に及ぼした。
西域都議
西域都議(前漢末期の前59年)とは、西域統治機関として設置された都護府の長官である。西域諸国の統轄のほか、屯田の経営、交易の保護などを任務とした。王葬以後一時中断されたが、後漢では班超が就任し、都護府を大きく発展させた。なお、西域都議は107年に廃止された。
甘英
甘英は、班超の部下で、97年に班超の命で大秦国(ローマ帝国)に派遣され、安息(パルティア)を経て、条支国(シリア)にいたったが、その結果は満足にいかなかった。理由は諸説あり、大海(西海とも記し、地中海説とペルシア湾説がある)の航海が困難であった、貿易によって栄えていた安息(パルティア)が難色をしめした、などの説がある。また条支国についても地中海沿岸のシリア地方からイランにいたる諸地域とする説があり一
定しない。
ローマ帝国の交流
班超が部下甘英(かんえい)を大秦国(ローマあるいはその東方領)に派遣し、また2世紀中ごろには大秦王安敦(マルクス=アウレリウス=アントニヌス)の使者が海路で中国にくるなど、後漢の時代には、陸路や海路を通じて東西交渉が活発化した。
倭
前漢以来、倭は朝鮮におかれていた楽浪郡と交易があったが、後漢の初めには、北九州にあった奴国の使者が洛陽に赴き、光武帝から印綬(「漢委奴国王印」)を与えられている。
党錮の禁
後は幼少の皇帝が続き、外戚と宦官が政治を左右し、実権を握るようになる。これに対して儒教を奉ずる官僚勢力(党人)が、宦官の専横に対抗しようとしたが、逆に弾圧され、終身的な公職追放に処せられてしまう。以降も弾圧は続き、力関係が極端に宦官に傾き、国政が混乱に陥った。
農民の貧窮
後漢は建国の際、豪族の力を借りたため、豪族を抑えることができなかった。そのため豪族は地方にあって勢力をふるい、農民はその圧迫と重税に苦しみ、各地に反乱が絶えなかった。
黄巾の乱
黄巾の乱とは、河北の張角が太平道という一種の秘密宗教を唱えて農民を組織し、頭にまいた黄色の布を目じるしにして起こした反乱である。華北一帯に波及した。政府は豪族の協力で一年で鎮圧されたが、これをきっかけに地方豪族は各地に地方政権を作って互いに争い、後漢の支配力は完全に失われた。
滅亡
後漢は農民の反乱と地方豪族の内紛の中で220年、そこにつけこんだ魏により滅亡した。