倭国|古代日本に反映した連合国,漢委奴国王

倭国

倭国とは中国の古記録に見える.日本および日本人の呼称である。1世紀前後、古代の日本列島には当時、様々な小国によって連合国がなされており、中国の諸王朝その周辺の国はその連合国を倭国と称した。対外的に日本と名乗るのは7世紀唐の時代になってからであった。倭国に住んでいた者を倭人と呼ばれ、中国からみて侮蔑的な意味があると考えられる。

目次

原始小国家

日本には、原始小国家が九州(あるいは畿内)を中心に多数存在していたと考えられる。前漢武帝が朝鮮に設置した四郡のうち、真番・臨屯は廃され、玄菟郡も規模を縮小し、朝鮮半島には楽浪郡だけが残っていた。その楽浪郡を通じて、当時の日本列島の情勢が中国に知られ、当時の日本には多くの原始小国家があり、その国家から楽浪郡へ朝貢していたことが知られている。
8年に前漢は倒れ、25年に後漢が復興するが、『後漢書東夷伝』には、倭は百余国に分かれていたが、後漢のときにはそのうち30国ほどが使節を送り、57年には倭奴国が使節を派遣し、光武帝が印綬を与え、107年には倭国王師野らが生口(奴隷)160人を献じたと書かれている。

楽浪海中に倭人有り、分れて百余国となり、歳時をもって来たり献見すと云ふ(『漢書地理志』)

「漢委奴国王」

「漢委奴国王」は57年に倭奴国が光武帝からという金印である。倭の奴国は大和時代、現在の博多付近の国のひとつだと考えられ、銅印でなく、金印であるところに、倭の奴国が一定のレベルに達していることが推測される。『後漢書』東夷伝に、57年に倭の奴国が朝貢したのに対し、光武帝が印綬を賜わるとあり、これを裏づけるものと考えられている。

「漢委奴国王」の発見

1784年(江戸時代)、北九州の博多にある志賀島(福岡市)で、農民の甚兵衛が田の用水路をなおしていたとき、金印を発見した。甚兵衛は庄屋と相談して藩主の黒田家に届け出た。

帥升

帥升は当時の倭国の王とおもわれる人物である。107年に遣使した倭国王の帥升は生口(奴隷)を160人も献上したと伝えられており、帥升がかなり大きな勢力をもっていた。このことから帥升がいくつもの小国を統率していた連合国の国王だったとも推測される。

倭国を取り巻く国際情勢1

朝鮮に対する漢の支配は、朝鮮の諸部族をめざめさせ、紀元前1世紀ころから部族国家を形成していたが、紀元2世紀後半になると後漢が急速に衰え、楽浪郡の地位も低下した。そのため半島中・南部の部族国家はますます発達し、地域ごとに連合体をつくり、馬韓・弁韓・辰韓の三韓が成立した。満州東部に起こった高句麗も、1世紀後半に国家を形成し、しだいに南下の傾向を示してきた。2世紀末、後漢の衰微に乗じ、遼東の太守であった公孫氏燕王が自立して、南満州から北朝鮮に入って楽浪郡を占領し、3世紀初めに、楽浪郡の南に帯方郡を置いた。

倭国を取り巻く国際情勢2

220年、後漢は滅亡して、中国は魏・呉・蜀の三国時代に入ったが、238年に魏が楽浪・帯方両郡を手中に納めた。しばらく半島は魏の支配に服した。やがて魏は倒れ、280年、普が中国を統一したが、4世紀以後いわゆる五胡十六国の時代となり、中国の勢力は半島には及ばないようになった。

邪馬台国

2-3世紀、三国時代の中国の歴史を書いた『三国志』の『魏志倭人伝』には、当時の日本に邪馬台国とその女王である卑弥呼に関する記述がある。邪馬台国とその女王卑弥呼についてのものである。2世紀後半には倭に内乱が続いたため、女性である卑弥呼をおいた。

タイトルとURLをコピーしました