平城京|平城京の遷都と奈良時代の始まり

平城京

文武天皇は刑部親王(おさかべ)、穂積親王を知太政官事とし、藤原不比等(659-720)を側近として政治をおこなったが、8世紀初めの慶雲年間に飢饉・疫病が続発すると、これによって死去した。
死後、母の元明天皇(在位707~15)即位すると、飢疫のもたらした難局を打開するために遷都を決め、710(和銅3)年、唐の長安の都城制にならってつくられた平城京に遷都した。後に山背国の長岡京・平安京に遷るまで、7代70余年の間、都は平城京にあったので、この時代を奈良時代と呼んでいる。

目次

平城京

平城京は、現在の奈良市西方にあり、南北約4.7km、東西約4.2kmの大規模な都で、北辺中央に大内裏その中に皇居や諸官庁があった。中央を南北に走る朱雀大路によって左京・右京に分かれ、各京は東西の大路で9条に、南北の大路で4坊に分かれる条坊制がとられた。
その中に、瓦屋根・白壁・朱塗柱の貴族の邸宅や飛鳥から移された諸大寺が立ち並んだ。左・右両京には京職が置かれ、また、東市・西市が設けられて市司が管理した。

平城京の様子

京内には、官設の東西の市や貴族・官人・庶民の住宅の他、大安寺、薬師寺、元興寺などのもと飛鳥地方にあった寺院が移されて大陸風の宮殿や寺院が甍があった。人口は約10万人といわれている。

農民の困窮

平城京の造営は農民に多大の労役負担を課すことになった。困窮に追い込まれた農民の逃亡が相次いだ。生活の困窮は、農民を乗田の賃租にかりたてることになった。

貴族抗争の激化

平城京の造営をすすめるため、公民の階層分化を促す三世一身法(723年)・墾田永年私財法(743年)が出されたが、律令体制の根幹を揺るがす法令であった。一方で、中央では貴族の抗争が激化する。奈良時代のはじめには天武天皇以来の皇親政治が行われていたが、律令による天皇への権力集中は、やがて、天皇をめぐっての側近政治を生むことになった。

藤原氏の台頭

天皇と近親関係をつくり、律令官人機構を最大限に利用した藤原氏がしだいに勢力を伸ばしていく。


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