外来思想|仏教,儒教,キリスト教,啓蒙思想

外来思想

日本は古来から外国の思想を受け入れながら固有の文化と共存するという特徴があり、いわゆる重層構造になっているが、これを外来思想という。日本は海外から新しい思想が入ってくると、それを排除するのではなく、その理解を通して思想を豊かにし、独自性のあるものに発展させてきた。
5ー6世紀、大陸・半島から仏教や儒教を導入して以来、外来思想の日本的発展が開始され、日本の思想史を語る上で不可欠な鎌倉仏教奈良仏教、江戸の儒学などに結実した。他方、外来思想に刺激され、わが国の土着思想から神道が形成され、江戸時代には国学がおこった。
明治維新、黒船来航を皮切りに欧米の思想が積極的に輸入されてきた。また西洋思想に批判的に分析し、日本古来の文化を見直す契機にもなった。そうした環境の中で日本近代の思想が生まれてくる。このように日本思想の展開は、外来思想を輸入しながらも「日本化」することによって受容したところに特色がある。この過程を通して、日本独自の伝統思想が形成されていった。

目次

外来文化の受容

一般には、固有文化と外来文化を対比してとらえる傾向にあるが、稲作をはじめ、禅や喫茶など日本的とされるものの多くは、実際には外国からもたらされたものであることがわかる。外来文化の不断の受容の中で日本文化が形成されていった。

崇仏論争

仏教の伝来にともない、仏教の受容に肯定的な蘇我氏と、それに反対する物部氏、中臣氏のあいだ論争が起こる。仏教をもたらした渡来人とつながりのあった蘇我氏は仏教の受容を積極的に主張したが、蘇我稲目は日本古来の神がみを祭る神道の立場からこれに反対した。この崇仏論争は武力を背景に蘇我氏が勝利することになり、推古天皇が四天王寺や法隆寺を建立するなど、仏教の受容が推し進められた。

国学

江戸時代に発展した国学は、日本の伝統的思想とされてきた仏教や儒教はそもそもが日本古来のものではないため、日本人の本来の心をゆがませていると批判する。国学者たちは、仏教や儒教が日本に伝わる以前の、日本にあった思想を高く評価し、それを広めることで日本人の本来あるべき姿を取り戻そうとした。国学の成立は、儒教や仏教といった、新しい思想が受容されている中で、古い思想再評価されたものとして見ることができる

神仏習合

神仏習合は、古くからあった神道の神が、仏教の教えに導かれて解脱し、仏になることを望むという形で仏教の中に生かさることをいう。外来思想を象徴する言葉である。

福沢諭吉の啓蒙思想運動

明治維新において福沢諭吉らは展開した啓蒙思想運動を展開した。欧米の近代文化を目前として江戸時代を代表する古い日本の思想はネガティブに受け止められ、過去の遺品でしかなかった。この立場で福沢諭吉は精力的に欧米の文化や思想を次々に日本に紹介し、欧米の合理的精神や独立自尊の精神を根づかせようとした。(啓蒙思想

内村鑑三や新渡戸稲造らキリスト教徒

福沢諭吉を中心とした啓蒙思想運動は、江戸時代以前の伝統的な思想や価値観を軽視している。内村鑑三新渡戸稲造に代表される明治のキリスト教徒はキリスト教の思想を受け入れながら、それを日本に広める際、日本の伝統的 価値観としての武士道や儒教、古来の偉人を重視し、日本の思想とキリスト教とのかかわりをどのようにしてとらえるかという視点から、自らの思想を構築した。

西村茂樹の転向

西村茂樹は、西周とともに啓蒙運動の一環として、漢字の採用をやめ、日本語をローマ字表記に変えるべきだと主張した。このような西村茂樹の啓蒙運動によって欧米の思想が急速に普及していた。特に自由や権利といった概念や自由民権運動のように自らの権利を主張し、政府と対決して権利を勝ち取る動きが全国に広まることになる。しかしながら、西村茂樹は、こうした傾向に疑問を持つようになる。自らが推進した啓蒙思想運動によって日本の伝統的な道徳観が崩れ始めて大衆が好き勝手に主張していると受け止めた。しだいにそれまでの啓蒙思想家の立場を離れ、日本の伝統的な思想を擁護する立場へ転向していった。(啓蒙思想

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