土佐勤王党|武市半平太,坂本龍馬,池内蔵太,中岡慎太郎

土佐勤王党

土佐勤王党(とさきんのうとう)は下士である武市半平太や大石弥太郎らによって設立された土佐藩の一派である。長宗我部の遺臣である下士を中心としたメンバーで構成された。参政の吉田登用を暗殺して藩の実権を握るが、武市半平太が切腹させられて衰退した。

土佐勤王党の身分階級別割合

土佐勤王党の身分階級別割合

盟約書

土佐勤王党の盟約書には192名の血判が押され、坂本龍馬、池内蔵太(後の亀山社中)、中岡慎太郎(後の陸援隊)が挙げられる。そのほとんどが下士であった。

坂本龍馬の長州派遣

土佐の主流派は佐幕(幕府体制を支持する)であり、「公武合体」を唱えていた。そのため上層部は、土佐勤王党の封じ込めを図る。それに反対した武市半平太は薩摩の勤王の動きに遅れをとることを嫌い、坂本龍馬を長州に送った。

武市半平太

武市半平太

吉田東洋の暗殺

武市半平太は土佐藩全体での尊皇攘夷・勤王を熱望したが、土佐藩参政の吉田東洋は反対した。そこで武市半平太土佐勤王党の那須信吾(なすしんご)は吉田東洋を暗殺した。土佐藩藩主の山内容堂は激怒したが、武市半平太に手はだせなかった。

天誅組

公武合体を唱えた山内容堂の意見を変えるため、土佐勤王党の間崎哲馬(まさきてつま)、広瀬健太、平井収二郎は青蓮院宮(中川宮)から「尊皇攘夷の令旨」を受けた。しかし、この越権行為に山内容堂は面白く思わなかった。

山内容堂

山内容堂

安政の大獄

山内容堂は、安政の大獄で蟄居を命じられるも、文久2年(1862)4月に謹慎を説かれ、再び実権を握る。間崎哲馬を許さず切腹を命じる。また武市半平太は投獄された末、慶応元年(1865)5月11日に切腹をくだされた。

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