勝海舟
勝海舟(かつかいしゅう)1823~1899。江戸出身の政治家。幕臣。私塾(氷解塾)を開き、オランダ語を教え、鉄砲製造の仲介を行った。その後、長崎海軍伝習所に入所。咸臨丸の艦長として遣米使節に随行してアメリカに行っている。神戸に後の亀山社中となる海軍操練所を設立し、坂本龍馬などの人材を育成した。戊辰戦争などでは薩摩藩との厳しい交渉を切り抜け、江戸城の無血開城を実現し、日本の独立と近代化の道筋を形成した。
勝海舟の年表
1823年 貧しい旗本の子として生まれる。
1829年 12代将軍家慶の子、初之丞のお相手として出仕
1838年 勝家の家督を相続
1845年 幕臣岡野孫一郎の養女たみと結婚・永井青崖の門下生となる
1850年 赤坂の自宅で私塾(氷解塾)を開く
1853年 ペリー来航。幕府に海防意見書提出
1855年 蛮書翻訳御用に登用、長崎海軍伝習所に学ぶ
1860年 日米修好通商条約批准使節随行、咸臨丸の艦長として太平洋横断する
1862年 軍艦本行並となる。坂本龍馬と出会う。
1864年 神戸に海軍操練所を設立し、人材を育成
1867年 大政奉還
1868年 江戸城無血開城を実現、徳川慶喜について駿府に移住
1869年 新政府の召し出しを断る
1875年 元老院議官に任命されるが固辞
1899年 東京に死去
生誕と江戸城
勝海舟は1823年、本所亀沢町の貧乏旗本の長男として誕生した。幼名は麟太郎。6歳のときに2代将軍徳川家慶の五男、初之丞(はつのじょう)のお相手として江戸城へ出仕し、数年間江戸は城で暮らすことになるが、初之丞が一橋家を継ぐことになったため、勝海舟は江戸城を去る。その後は剣術の修行に専念した。厳しい修行をつみ、21歳で免許皆伝した。
洋学
勝海舟は、17歳に世界地図を見たことに衝撃を受け、蘭学を学ぶことを決意した。刀を振り回さず技術と兵法で戦をする時代を予感し、1845年、筑前黒田藩の永井青崖(ながいせいがい)の門下生となる。(同年、幕臣の岡野孫一郎の養女たみと結婚している。)そのころ、経済的に苦学した勝海舟は『ズーフ・ハルマ(蘭和辞書)』全8巻を借り受け、全巻の書写を行った。なお、2部書写を行い、その1部を10両で知人に販売し、その10両を、借り受けた賃料として支払った。1850年には江戸へ戻り、赤坂で氷解塾(蘭学塾)を開き、西洋兵学を教授する。
海防意見書
1853年、アメリカのペリーが浦賀に来航、いわゆる黒船来航に伴い、勝海舟は江戸幕府に海岸防備や身分を超えた人材の登用記された海防意見書を提出する。この意見書が幕府海防掛の大久保忠寛(くぼただひろ)の目にとまり、勝海舟は下田取締勝手付に登用され、翻訳などを行う。1855年、海舟は長崎海軍伝習所の伝習生に選ばれ、現役オランダ海軍軍人から航海術などを学んだ。その5年後、咸臨丸とともに太平洋横断への第一歩を記すことになった。
薩摩藩と琉球の違法貿易視察
長崎に来て三年目、幕府の目により、琉球との違法貿易を行っていた薩摩藩の視察を行っている。薩摩藩の島津斉昭は視察を取りやめるよう懇願した。琉球との貿易とその裏にある軍備拡張を幕府に報告すれば、軍事衝突することは必死になる。天候の悪化を理由に琉球視察を断念した。島津斉昭は敵対関係にある勝海舟を高く評価し、その評価は後に江戸城の無血開城の交渉を行う、西郷隆盛もそのなかにいた。
咸臨丸
遣米使として、咸臨丸の艦長を務めていた。通訳には、ジョン万次郎を抜擢した。また、咸臨丸には福沢諭吉が乗っている。
アメリカでは人の上にたつにはその地位相応に利口でございます。この点ばかりは我が国とは正反対のように思われます。
(日本がアメリカに追いつくのは)500年かかります。軍艦だけなら数年で揃えることができるでしょう。が、人を育てるには時間がかかります。広く日本国全国から身分の上下を問わず有能な人材を集め、力を合わせれば、海軍は盛んとなるでしょう。
龍馬の赦免の申し出
文久3年(1863)、勝海舟は山内容堂に、当時、土佐藩を脱藩した龍馬の赦免を申し出た。龍馬の他、数人の土佐藩士、高松太郎、望月亀弥太、千屋虎之助の預かりを申し出た。以降、坂本龍馬を門下として明治維新の原動力となる若者を育てあげた。
海軍操練所
文久3年(1863)4月、徳川家茂が船で神戸に上陸した際、海軍の創設を献策した。そこで、幕府は3千両の予算にて海軍操練所の設立を正式に準備をさせた。しかし、幕府は池田屋事件の死者の中に元海軍塾の塾生であった望月亀弥太がいたため、海軍塾の責任者である勝海舟が責任をとる形で解任させられることとなる。 松平容保は勝海舟を江戸に呼び戻し、元治元年(1864)11月に勝海舟は海軍奉行を解任、海軍操練所は閉鎖されることになつた。
岡田以蔵
文久1863年、勝海舟は坂本龍馬の紹介で岡田以蔵を警備につけた。
下関戦争交渉
元治元年(1864年)、長州藩が攘夷のため、下関海峡を封鎖した。英、仏、蘭、米の四カ国による武力行使を防ぐため、2月、勝海舟は坂本龍馬を連れて長崎にて交渉を行うが決裂、6月には下関戦争が起こった。
亀山社中
海軍訓練所が閉鎖されたため、塾生たちの働き場所が必要となる。そこで勝海舟は薩摩の家老、小松帯刀に相談した。彼らの航海術を高く評価していた小松帯刀は快諾し、「社中」(会社)を作る。後年、長崎の亀山で作られたため、亀山社中とよばれるようになった。
江戸城の無血開城
武力を背景に討幕を狙う西郷隆盛率いる新政府軍は、江戸城への総攻撃を慶応4年(1868)年3月15日と定めた。その直後、勝海舟は、13、14日に西郷隆盛との交渉に挑み、強行派であった西郷隆盛を説得した。幕府に仕える身でありながら、戦わずして降伏した勝海舟に対して、幕府側の人間からは非難が相次いだ。福沢諭吉は不忠者として批判するが、大不忠の忠としてそれを退けた。
交渉準備
交渉が決裂した場合、江戸の侠客に江戸を焼き払い、市民の避難の段取りをつけた。また新政府に影響力のあるパークスに根回しし、旧幕府軍には戦意がないことを説明、内戦による貿易に被害が及ぶことを問題視したパークスは江戸への攻撃は国際法違反だと説得にあたった。
西郷隆盛の同意
西郷隆盛は、勝海舟の周到な下準備を見抜き、内戦の回避に同意、江戸が戦火におちることなく、平和裏に明治維新を成し遂げた。
伯爵
勝海舟は伯爵位を明治政府から送られ、明治32年(1899年)に死去する。
三男梅太郎
ウィリアム・ホットニーニ(アメリカ)は講習所創設のため来日したものの、住居に困っていた一家を自宅の敷地内を貸し出した。ウィリアムと勝海舟は家族間で交流し、ウィリアムの妻や娘のクララは勝海舟の子供たちに英語を教えた。そうした中、勝海舟の三男梅太郎の子をクララが身ごもることになる。勝海舟の家に嫁ぐことになるが、梅太郎は生活力がなく、クララは子どもを連れて帰宅する事になった。