寺田屋騒動|薩摩藩・島津久光と有馬新七の対立

寺田屋騒動

寺田屋騒動とは、京都の寺田屋で藩主・島津久光による薩摩藩急進派の弾圧事件である。文久2年(1862) 4月、薩摩の急進派の有馬新七と各藩の義勇、久留米水天宮の真木和泉守は、京都伏見の寺田屋で京都二条城を制圧し、江戸へ倒幕に向かうという計画を立てていた。
「公武合体」を基本戦略であった薩摩藩では受け入れることはできず、薩摩藩の島津久光は、尊王攘夷派を薩摩示現流の武士に襲わせた。わずか10分ほどで8名が即死であった。

寺田屋

寺田屋

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寺田屋

江戸時代初期から続く船宿で、坂本龍馬も頻繁に泊まっており、1866年には伏見奉行所の役人に襲われた宿である。鳥羽伏見の戦いで燃えてしまう。

島津久光の上洛

1862年3月、公武合体を進言するため、薩摩藩の島津久光は1000人の武士を率いて上洛した。

反乱の鎮圧

1862年4月16日、関白九条尚忠、京都所司代酒井忠義を襲撃し、久光を倒幕へ巻き込むことを画策、大坂の藩邸を出て攘夷派に加わった。公武合体を藩論をであったため、島津久光はこれに激怒し、奈良原喜八郎、大山綱良らに鎮撫を命じ、反乱の鎮圧をはかった。

有馬新七の死去

1862年4月23日、有馬新七、田中鎌助ら攘夷派は伏見の寺田屋に集結し、挙兵の準備をすすめた。これに対し、奈良原喜八郎、大山綱良ら鎮撫隊は説得を試みるも交渉は決裂する。同行の一人が有馬新七を切りつけ、乱闘が始まり、有馬新七ら7人はここで殺された。

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