儒家|孔子が説く仁と礼,諸子百家

儒家

儒家は魯からしだいに各地へ広がっていったが、最初に大きな影響をうけたのは魏である。儒家は、ここで多くの人材を養成して、魏に全盛時代をもたらした。斉では全国から学者を招き、都臨淄に邸宅をつくり、ここに彼らを住まわせ保護した。ここで孟子荀子が活躍し、儒教をさかんにした。

孔子
孔子

目次

孔子

孔子(前551頃~前479)は、字は仲尼といい、春秋時代末期の魯の曲阜(山東省)に生まれ、15歳で学問に志し、30歳ころ自身の思想を確立した。の政治を理想として、魯の国政改革に参加したがうまくいかず、諸国を巡歴した。帰郷してから、古典の整理や弟子の教育に専念し、家族道徳の実践から仁の完成をめざす「修身・斉家・治国・平天下」の道を説いた。

徳治主義

孔子は徳地主義の政治を理想とした。政治は、天命をうけた有徳の天子がおこなうべきで、の政治、とくに周公の治世を模範とすることを説く。

仁は孔子の基本的思想で、人と人の間に自然にそなわる道徳的な心情である。親に対する考えと、兄に対する悌(てい)がその根本としている。孔子は仁を広く実践することで、国家・社会の秩序を保つことができると説いた。

礼は社会の基礎になるもので、仁によってそれが実現されると説いた。孔子は、の礼を理想とし、孔子が活躍した当時、礼がその効力を失っているため平穏が訪れない。を模範として、人と人との間に自然に備わる道徳的な心情としての仁をめざし、仁の完成により天下を治める事が出来るとした。

『論語』

『論語』は孔子の死後、弟子たちによって編集された孔子と弟子の言行録である。

『春秋』

『春秋』は五経の一つで、春秋時代の名称にもなった。春秋時代の魯の年代記で前722~前481年間の簡単な記録されている。孟子がこれを孔子の編集になるととなえたため、儒家はその一字一句にこだわって探究を進めた。

『書経』

『書経』は五経の一つで、漢以前は『書』、漢以後は『尚書』といい、南宋以後『書経』と呼ばれた。堯・舜からの王を中心とする人びとの言葉を記録した。周公旦(しょうこんたん)に関係の記録を中心にして、儒家が手を加えたものとされている。

孟子

孟子(前372頃~前289頃)は戦国時代の儒家で、孔子の孫の子思の門人から儒教を学んだ。魯の趨(山東省)で生まれた。孔子の説を継承し、さらに性善説や易姓革命説をとなえ、覇道を否定して王道政治を評価した。前4世紀ころ、斉や宋などを遊説したが失敗し、帰国して弟子の教育に専念した。その言論を記したのが『孟子』としてまとめられている。

王道政治

孟子は武力によって民衆を治める覇道を否定し、天命が有徳者に移るとする革命論を説き、徳によって民衆を始める政治をといた。

性善説

性善説は孟子の説で、人の本性は善で、不善は後天的要素によるとし、人はみな聖人になることができるという性善説を説き、仁と徳による王道政治を理想とした。

荀子

荀子(前298頃~前235頃)、戦国時代末期の儒家である。趙に生まれた。孔子の説を継承し、孔子の性善説に対して性悪説をとなえ、社会の秩序を維持するための礼を強調した。斉・楚に仕えた。その言論を記したのが『荀子』であり、法家の韓非・李斯はその門下生であった。

性悪説

性悪説は荀子の説で、人の本性は悪であるからこそ、その矯正のために、聖人(君主)が定めた礼による教化が必要であるとした。孟子とはことなる方向で孔子の思想を継承・発展させた。

墨家による批判

墨家の祖である黒子(前480頃~前390頃)は、孔子の説く仁を差別的な愛とし、形式的な礼楽の説や家族道徳を第一とすることに反対し、無差別平等の愛である「兼愛」を主張した。万人に対する博愛主義にたち、浪費をいましめ、相互の助け合い(交利)を主張し、戦争は浪費の最大なものとして、非戦論(非攻)を唱えた。

道家による批判

老子荘子など道家は、孔子の説く仁や礼を人為的なものだとして、いっさいの人為を排して無為自然を説いた。老子は、儒教が形式化し、それに合わせようとする不自然な努力を否定し、いっさいの人為的なものを排して、万物の根源を無であるとし、そして無の性格は自然である、無為自然を主張した。

『詩経』

『詩経』は中国最古の詩集である。305篇になす。戦国時代に儒家が編集したもの。地域的には黄河流域に限られ、おもに諸国の民謡となどの祭祀・儀式に関する歌とからなる。のちに五経の一つとされた。


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