中江藤樹|日本陽明学の祖,良知,孝は広大で無限の徳

中江藤樹

中江藤樹は、江戸時代初期の儒学者。日本における陽明学派の祖とされる。主著は『翁問答』、『大学考』、『中庸解』(ちゅうようかい)、『鑑草』。
中江藤樹は当初は朱子学の立場であったが、陽明学を読んだのをきっかけに朱子学の理念的傾向を批判し、陽明学の主体的実践的側面を強調した。特に日常生活における道徳、特に「孝」を重んじた。それを親子間の個人的徳とするだけでなく、すべての人倫の根本とし、さらに万物を成り立たせる原理であるとした。
中江藤樹によれば、朱子学が重んじる敬は外面的な規範を示すものであり、それに対して孝は真心をもって人を作び、人を愛する心である。藤樹は封建社会の身分秩序を否定しなかったが、儒学を庶民の道徳として広めた。多くの地元の庶民に支持をうけ、近江聖人と呼ばれた。

目次

中江藤樹の生涯

中江藤樹は、近江国(滋賀県)の農家の子に生まれ、9歳米子藩士の祖父にひきとられ武士として育てられた。翌年、主君の命により伊予国大洲(愛知県)に移住した。16歳で『四書大全』を読み、朱子学に傾倒していく。18歳の時、郡奉行(こおりぶぎょう)として在職。26歳の時、父の死後、老母を養うことを理由に、藩の許しを待たずに近江に帰り、その後、酒を売り米を貸して生計を立てた。なお、このとき、私塾の藤樹書院を開き、庶民の教育にあたっている。
『礼記』の教えどおりに数え年30歳(満29歳)で結婚したことからも分かるように、儒教の礼法の遵守を志していたが、33歳の時、伊勢の皇太神宮には参拝し、朱子学の礼法を固守する弊害を感じるようになり、36歳ごろから陽明学に傾倒していき、日本陽明学派の祖と言われるようになった。以後、41歳で死去するまで実践を重んじ、善行徳化につとめた。
儒学、医学を講じて、熊沢蕃山、山淵岡山など多くの門人を養成した。中江藤樹は江戸時代中期には、清貧の中で道を究め続けた高徳の人として知られ、地元の人びとに近江聖人と呼ばれ親しまれた。

1608 近江国高島郡小川村に生まれる。
1624 『四書大全』を読む。
1626 郡奉行になる。
1634 脱藩し、小川村に帰る。
1636 大洲藩士や村人が藤樹の門に次第に集まる。
1637 高橋久子と結婚する。
1640 『翁問答』を著す。
1641 伊勢神宮に参詣する。熊沢蕃山、門人となる。
1644 『陽明全書』を読む。淵岡山、門人となる。
1647 池田光政の招きを断る。
1648 藤樹亡くなる。
1650 『翁問答』刊行される。

孝は、孔子以来、儒教が重視した徳。もともとは親に対する子のふるまい方であるが、中江藤樹は、その孝を究極の原理に高め、親に対する子のふるまい方としての孝を、すべての身分の別に関係のない、共通に万人の心に内在しているものとした。したがって日常的に「孝」を中心とする生活を送ることの大切さを説いた。
中江藤樹によれば、自分の身は親より受け、親の身は天地から受け、天地は太虚より受けたものであるから、天地万物は同根一体である。その意味で、孝とは永遠の道理である。そしてその道理が人に現れた場合に人倫の道埋とされる。
孝とは親の子にたいる関係であるが、その前に絶対者への帰属関係であるともいえ、すべてが孝の展開にほかならないととらえた。

そもそも孝は、万物を生み出す宇宙の本体である太虚の全体にいきわたり、永遠に終わりもなく始めもない。孝のないときもなく、孝のないものもない。

孝は広大で無限の徳であるから、太虚から生まれた万事万物の内に孝の原理のそなわらないものはない。

わが身をはなれて孝はなく、孝をはなれてわが身はないから、身を立て人の道を行うのが孝行の網領である。

『翁問答』からの引用

親には敬愛の誠をつくし、主君には忠をつくし、兄には悌を行ない、弟には順をほどこし、朋友には信をもって交わり、妻には義をほどこし、夫には順をまもり、かりにも偽りを言わず、些細なことで不義をせず、視聴言動みな道にかなうことを、孝行の条目とするのである。そうであるから、一挙手一投足にも孝行の道理がある。

時・処・位

時・処・位とは、孝の心の具体的な実践のあり方である。万物の根本である孝の心が、時(時期)と処(場所)と位(身分)の三つの条件を考慮して実践されるべきことを説いた。
朱子学が敬や礼を重んじ、つねに規範の遵守を求めることに対して、彼は孝の具体的実践については、時間や場所、身分を考慮し、柔軟な対応と活発な心の動きを重視した。中江藤樹のこの思想は、熊沢蕃山の時・処・位論に影響を与えた。

  • 時:時代.または時勢(とき)。
  • 処:場所または国、地域(ところ)。
  • 位:地位または身分、職能など(身分)

良知

良知とは、幼い時から親を敬愛する最初の一念を根本にする、心に内在する善悪の判断力であるという。すべての人には善悪を判断する良知がそなわっているとして、これを鏡とし、種として工夫すべきと説いた。また、知ることは行うことのもとであり、行うことは知ることの完成であるという陽明学の知行合一の教えを広めた。

陽明学の致良知との比較

陽明学で「良知を致す」とは、良知を事物の上に及ぼしはたらかせて道理を実現することであるが、中江藤樹における「良知」は愚痴・不肖の凡夫の心にも明瞭にあるもの」ことである。陽明のように外への積極的な発動を重視せず、内省の工夫による良知の修養を主旨とした。

全孝の心法は、その広大高明なことは神明に通じ、宇宙に行き渡っているけれども、要するに本実は、身を立て道を行なうことにある。身を立て道を行なう大本は明徳にある。
明徳を明らかにする大本は良知を鏡として、独りを慎むにある。
良知とは、赤子幼童の時からその親を愛敬する最初の一念を根本にして、善悪の分別是非を真実に弁え知る徳性の知をいうのである。
この良知は、「磨すれども、磷がず、涅むれどもしかも緇まず」の霊明であるから、どんなに愚痴・不肖の凡夫の心にも明にあるものである。だから、この良知を工夫の鏡とし、種子ともして工夫するのである。

内村鑑三『代表的日本人』

中江藤樹の徳は近隣の農民にも及び、老いた母の喜びをわが喜びとしたなどの逸話は、近代になってからも孝の道徳を表す典型として教科書に載るなど人々に親しまれた。内村鑑三は、日本史上、最も理想的な教育者として、『代表的日本人』の中で中江藤樹の求道生活を紹介した。

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