ソクラテス|ただ生きるのではなく善く生きるのだ

ソクラテス  Σωκράτης Sōkratēs 紀元前469年頃 – 紀元前399年4月27日

ソクラテスは、古代ギリシアのアテナ出身の哲学者、思想家。倫理学の創始者といわれる。父は彫刻師で、母は助産婦であった。弁論術の長けたソフィストに対し敵対関係をとった。知への愛(フィロソフィア)の思想を説き、弁論ではなく対話をもって知にアプローチすることを掲げる。彼の弟子としてプラトンアリストテレスを育て、哲学や倫理学に大きな影響を与えた。ソクラテスの思想は現代でも生きており、イギリスの倫理学者であり功利主義を説いたジョン・スチュアート・ミルは「満足した豚より不満足なソクラテスがいい」といい、ソクラテスに習って生きることを説いた。紀元前399年ごろ、政治的には青年たちを堕落させ、国家の認める神々を信じないとして、死刑判決を受ける。しかし、当時の法を照らしてみてもソクラテスが死刑にまでいたるとは考え難く、政治的策謀の下で死刑の判決がくだされた。仲間たちはソクラテスが亡命するように手配したが、普段、不正を犯さないよう言っている自分がそれに背くわけにはいかないとし、毒杯を飲むことを受け入れた。これにより「ただ生きるのではなく善く生きる」としたソクラテスの思想は完結することとなる。(ソクラテスの生涯

ソクラテス

ソクラテス

著作

ソクラテスは自身で文章を残していない。プラトンの対話編、『ソクラテスの弁明』『パイドン』『クリトン』『饗宴』、クセイノフォンの『ソクラテスの思い出』の中から、ソクラテスの思想を見ることができる。また、喜劇作家アリストファネスも哲学者ソクラテスについて,イメージとは異なる作品を残している。

ソクラテスの影響

ソクラテスの関心は自然の探求ではなく、人間に関わる徳の問題を扱う。ソクラテスによって哲学の対象が、自然哲学であつかった自然から人間に移行した。また、相対主義の立場に立ったソフィストと異なり、真実なるものの存在を追及した、理想主義の立場に立つ。それは人間を対象にする意味での真実なものであるから、自然とは異なり、感覚の対象である目に見えるものではない。目には見えないがそこに在ると思われる価値の問題である。ソクラテスの思想は、以後、西洋哲学の主流となった。

問答法

ソクラテスは、問答法・対話法(ディアレクティケー)を通じて、それぞれの定義、個々の実例ではなく、普遍的概念を見つけ出す。対話によって相手の無知を自覚させ、相手が智慧を生み出すのを助ける。これは出産を助ける助産婦をイメージして、魂の助産術と呼ばれた。

ダイモン(神霊)の声

ソクラテスは非合理的神秘的側面を持っており、自らの行動をダイモン(神霊)の声で決めた。本当のことを知っているのはダイモンだけであると信じた。ソクラテスダイモンの関係は、内面的な良心に関わるもので、ソクラテスの行動に禁止のメッセージを伝える。しかし、それは単なるメッセージだけそれが何をさすか、ソクラテス自身で決めるのである。

デルフォイの信託と無知の知

当時、ポリスでは一般市民から政治家までデルフォイの信仰があった。巫女が信託を受けとり、様々な決断を下す。ときには戦争の決定も巫女の信託に頼ることもあった。友人カイレポンがデルフォイの神に「ソクラテスより知恵のあるものはいない」というデルフォイの神託を受ける。ソクラテスはこれに疑問を感じ、言葉どおりに理解することはできなかった。そこで世間では知者と呼ばれる数々の政治家、悲劇作家、職人など自分より知恵のありそうな者と問答を開始した。その結果、彼らはそれぞれの能力に長けてはいるが、それでも全般的に無知であることを自覚していない。一方、ソクラテスは自分が無知であることを知っている。無知を知っている、この一点に置いて彼らより知がある。それにより、「無知の知」を発見、デルフォイの神託を認めるものとなった。(「汝自身を知れ」)

デルフォイの信託1『ソクラテスの弁明』から引用

わたしに、もし何か知恵があるのだとするならば、そのわたしの知恵について,それがまたどういう種類のものであるかということについて,わたしはデルフォイの神(アポロン)の証言を、諸君に提出するでしょう。というのは,カイレポンを、たぶん、諸君は知っているであろう。……あれは何をやり出しても熱中するひとだったのです。それでこの場合も、いつだったか,デルフォイに出かけて行って、こういうことで、信託を受けることをあえてしたのです。それで、そのことをこれからお話しするわけなのですが、どうか諸君、そのことで騒がないようにしていてください。それはつまり,わたし(※注 ソクラテス)よりも誰か知恵のある者がいるか、どうかということをたずねたのです。すると、そこの巫女は、より知恵のある者は誰もいないと答えたのです。

デルフォイの信託2 『ソクラテスの弁明』からの引用

というのは,いまの神託のことを聞いてから、わたしはこころに、こういうふうに考えたのです。いったい何を神は言おうとしているのだろうか。いったい何の謎をかけているのであろうか。なぜなら,わたしは自分が、大にも小にも、知恵のある者なんかではないのだということを自覚しているからです。すると、そのわたしをいちばん知恵があると宣言することによって、いったい何を神は言おうとしているのだろうか。というのは,まさか嘘をいうはずはないからだ。……そしてまったくやっとのことで,その意味を,何か次のような仕方で、たずねてみることにしたのです。それは誰か、知恵のあると思われている者のうちの一人を、尋ねることだったのです。ほかはとにかくそこへ行けば、信託を反駁して、ほら、この者のほうが、わたしよりも知恵があるのです。それなのに、あなたはわたしを知者だといわれた、というふうに、信託にむかってはっきり言うことができるだろうというわけなのです。

無知の知 『ソクラテスの弁明』からの引用

わたしは、自分ひとりになった時、こう考えたのです。この人間より,わたしは知恵がある。なぜなら、この男もわたしも、おそらく美のことがらは、何も知らないらしいけれども、この男は、知らないのに何か知っているように思っているが、わたしは.知らないから、そのとおりにまた知らないと思っている。だから、つまりこのちょっとしたことで、わたしのほうが知恵のあることになるらしい。つまりわたしは、知らないことは,知らないと思う。ただそれだけのことで,まさっているらしいのです。

今日の無知の知の解釈

無知の知とは、我々は何も知らないのに、知っているように振る舞ってしまう。ソクラテスは自分の無知を自覚し、無知であることを知ることから思索をはじめないといけないとした。
1.人間の持つ知識についての吟味であり、つまり認識批判で自覚的に行われていた。
2.知識の吟味の仕方であり、それを客観的に対象化し外から問答える法で試す。(ある意味では、経験論的な立場)

ソクラテスの問答の型

1.テーマとする言葉について相手になんであるかの定義を述べさせる
2.論議を続けていくうちに、その定義が部分的にすぎないことがわかってくる
3.新たにべつの定義が提出され同じように吟味されてゆく
(このように問答法により部分的なものの検討を通じて、共通な普遍的なものが明らかにされ、真の定義によって、本質が捉えられる。)

ソクラテス的アイロニー

自分は知らないふりをするという言葉でエイロネイア(皮肉)という言葉でソクラテスの無知の知の態度を表された。アイロニー(皮肉)の語源となる言葉で、ソクラテス的アイロニーとは、相手の主張を全面的に認めた上で、相手の認める範囲の論理を駆使して、相手の最初の前提と矛盾した結果を引き出し、相手に無知をしらせる仕方のことをいう。

主知主義

ソクラテスは主知主義の立場をとる。徳(アレテー)とは、魂(プシュケー)がすぐれていることであり、魂(プシュケー)がすぐれていることは魂が正しさ(正義)を求めていることである。また魂とは知であり、よって正義とは何かを知によって探求することである。魂が正しくあるか否かは、魂が正・不正を性格に知っているか否かに関わってくる。知行合一、つまり徳(アレテー)と知(ソフィア)が同じであることは幸福(エウダイモニア)は一致する。徳は知であり、また正しい知は正しい行為に結びつく。このことから哲学(フィロソフィア)は愛知と訳される。幸福とは「善く生きること」である。

善く生きること

ソクラテスはメレトスという若者によって、国家の認める神を認めず、青年を堕落させた罪で訴えられ、死刑を勧告された。当時の法律に照らしても非常に重たい判決で、政治的な策謀がみられる。ただし、ソクラテスは亡命する機会も与えられた。友人や弟子たちが亡命を勧める。『クリトン』の中で、脱獄をすすめたクリトンに対して、ソクラテスは法と正義について語った後に「単に生きることではなく、善く生きることである」といい、悪法であっても法である以上、それに従わなければならず、不正を働いて魂を汚して生きるより、毒杯を飲むことを選んだ。

魂の配慮

自分の魂を気づかうことによって、徳が備わるよう世話をする生き方をいう。ソクラテスは、名誉や欲におぼれ堕落するアテネ市民を批判し、魂の気づかいを優れたものにすることを主張した。

『ソクラテスの弁明』プラトン

・・・世にもすぐれた人よ。君はアテナイという知力においても武力においても最も評判の高い、偉大なポリスの一員でありながら、ただ金銭をできるだけ多く自分のものにしたいというようなことに気を使っていて、恥ずかしくないのか。

諸君のうちの若い人にも年寄りにも誰にでも魂ができるだけすぐれた善いものになるよう、ずいぶん気を使うべきであって、それよりも先にもしくは同じ程度でも身体や金銭を積んでも、そこからすぐれた魂が生まれてくるわけでもなく、金銭

の他のものが人間のために善いものとなるのは公私いずれにおいてもすべては魂の優れていることによるのだから、というわけなのです。

「この男も私もおそらく善美のことがらについては、何も知らないらしいけれども、この男は知らないのになにか知っているようにおもっているのに対し、私は知らないからその通りにまた知らないと思っている。この少しの点でわたしの方が智慧のあることになるらしい。

単に生きることではなく、善く生きることこそ大切である。・・・よく生きることと、美しく生きることと、ただしく生きることは同じである。

たとえ他人から不正を受けても、不正をもって報いてはならない。

どのような条件のもとでもポリスやポリスの法に暴力を加えてはならない。

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