ウマイヤ朝|イスラム帝国の拡大とシーア派・スンニ派の分裂

ウマイヤ朝

ウマイヤ朝は、ムアーウィヤの開いた王朝で正統カリフ時代以降のイスラム帝国である。都はダマスクス。ウマイヤ朝以前は、ウマイヤ家がカリフを世襲した。西北インドからアフリカ北岸・イベリア半島にいたる領域を支配する大帝国を樹立し、ビザンツ帝国・フランク王国と対立した。第5代アブド=アルマリクのころ全盛期となったが、ウマイヤ朝を認めないシーア・ハワーリジュ派や、不満を高めたマワリーらの反乱などで衰え、8世紀アッバース家に滅ぼされた。

ムアーウィヤ

ムアーウィヤ(?~680)は、ウマイヤ朝の初代カリフ(在位661~680)である。ムアーウィヤは、クライシュ族のウマイヤ家出身のシリア総督で、正統派カリフの時代を終焉させた。アリーとたたかい、アリーが暗殺されたのちにカリフを称して、ウマイヤ朝を創始した。

ダマスクス

ウマイヤ朝のムアーウイヤは、都をクーファからシリア南端のダマスクスに遷都した。ダマスクスは、シリアの中心都市で、635年イスラム教徒に占領され、政治・経済の中心として繁栄した。

ウマイヤ家

ウマイヤ家はクライシュ族名門で、ムハンマドを輩出したハーシム家とも並ぶ名門の一族である。。

カリフ

正統カリフ時代ムスリムの選挙によっていたカリフの地位は、ムアーウィヤ以後、世襲となり、政治的色彩の強い主権者として教権を政権の下に服属させるようになった。

領土の拡大

8世紀初めになるとウマイヤ朝は政治的にも安定し、イスラム帝国の領土はますます拡大した。東は中央アジアを征服してパミール高原付近で唐の勢力と接触し、8世紀初めにはインド西北(ソグディアナやシンド)に迫り、西は先住民であるベルベル人の抵抗を排して北アフリカを平定してモロッコに達し、ジブラルタル海峡を越えてイベリア半島に入り、711年、ゲルマン系の西ゴート王国を滅ぼした。このときからグラナダ陥落(1492)まで、イベリア半島には800年近くにわたってイスラム政権が存続した。

地中海への進行

イスラム帝国は、ピレネー山脈を越えてフランスに進出したが、当時ヨーロッパに勢力を伸ばしつつあったフランク王国のカール=マルテルのために、732年、トゥール・ポワティエ間の戦いで敗れてスペインに引きあげた。しかし、その後も地中海を支配して、ヨーロッパを包囲圧迫した。

トゥール・ポワティエ間の戦い

トゥール・ポワティエ間の戦い(732)とは、イベリア半島からフランク領内に進撃したウマイヤ朝の軍隊が、カール=マルテルの指揮するフランク軍に大敗した戦いである。以後、イスラム教徒とキリスト教徒とはピレネー山脈を境に対峙した。

生活様式の変化

もともとアラブの民は遊牧民族で商業を生業としていたが、ウマイヤ朝イスラム帝国の領土が拡大し、農耕地帯におよぶようになると、定住・土地所有の傾向が生じた。新たに貴族階級を形成する者も出現する。

商業ネットワーク

もともとアラブの商業を担っていた商人たちは、新都市や既存の都市(ダマスクス、アレクサンドリア)を結ぶ緊密なネットワークをつくりあげ、「イスラムの平和」のもとに広大な経済圏が形成された。経済政策としても、7世紀末から『コーラン』の文句を刻んだアラブ貨幣の鋳造などが始まった。

シーア派とスン二派

ウマイヤ朝帝国の成立によって、カリフの座を狙った内部対立は激化していった。ウマイヤ朝イスラム帝国によってカリフの地位を奪われた一派は、イラン東境のホラサンに走り、独自の教義を立ててシーア派を開いた。これに対してカリフを正統の後継者と認める派をスンニ派という。

社会的不平等

ウマイヤ朝では、支配者集団であるアラブ人ムスリムが優遇され、土地所有者となっても、規定どおり税(ウシュル)を支払うものはわずかであった。一方で、征服地の先住民には、ハラージュとよばれる地租やジズヤと呼ばれる人頭税を課せられ、イスラム教に改宗しても免除されることはなかった。またイスラム帝国のキリスト教徒やユダヤ教徒は、ズィンミー(被護民)として人頭税の支払いを条件に信仰の自由を認められたが、不平等な状態であり、民衆の不満は募る一方であった。

ウマイヤ朝の滅亡

ウマイヤ朝は、軍事力を背景に勢力拡大を図り、長年を通じて東西に進出を繰り返した。長年の軍事行動は、カリフを専制的とし、アラビア人第一主義をとったため、民衆の不満が高まっていく。頻発した内乱により、ウマイヤ朝イスラム帝国は、7世紀後半には、ビザンツ帝国への攻撃に失敗して急速に衰え、750年アッバース朝興起のために滅亡した。