「我思う。ゆえに我あり」  コギト・エルゴ・スム |デカルト

「我思う。ゆえに我あり」(コギト・エルゴ・スム) Cogito ergo sum

「我思う。ゆえに我あり」(コギト・エルゴ・スム)とは、デカルトの哲学の根本原理であり、直観的で明晰判明な観念として、哲学の基本命題とされた。コギト・エルゴ・スムはラテン語で、この命題におけるコギト(われ思う)は、自我の意識作用を広く含む。デカルトは彼の思想のスタートとして、論争の余地のない、疑いきれる余地のない事柄から出発しようとした。そして、その方法は、方法的懐疑によってなされる。すなわち、すべてのものを疑ったうえでもなお疑いえない確実な真理は、そのように疑っている私自身が存在していることである、と。この疑っている「我」の存在。つまり意識的な自我の存在は、直観に与えられた明晰判明な観念であり、疑い得ない事実として哲学の基本原理になる。デカルトは、この論争の余地のない「自我」の存在を出発点にして、さまざまな知識を合理的な推理によって導く演繹法によって展開されていく。デカルトによる「考える我」の発見は、主体的に思考する近代的な個人の自覚のあらわれであり、西洋思想における近代的自我(西洋近代思想)のめざめとされている。なお、「考える精神」に対して、「延長を本質とする物体」を区別する心身二元論がうまれ、自然を因果関係によって機械論的自然観につながる。

我思う。ゆえに我あり

我思う。ゆえに我あり

『方法序説』からの引用

かくて、われわれの感覚がわれわれをときには欺くゆえに、私は、感覚が我々の心に描かせるようなものはなにも存在しないと想定しようとした。次に幾何学の最も単純な問題にさえ、推理を間違えて誤謬推理をおかす人々がいるのだから、私もまた他の誰とも同じく誤りうると判断して、私が以前には明らかな論証と考えていたあらゆる推理を、偽りなるものとして投げ捨てた。そして最後に我々が目覚めているときにもつすべての思想がそのまま、我々が眠っているときにもまたわれわれに現れうるものであり、しかもこの場合はそれら思想のどれも真であるとはいわれない。(夢の思想には存在が対応しない)ということを考えて、私はそれまでに私の精神に入りきたったすべてのものは、私の夢の幻想と同様に真ならぬものである、と仮想しようと決心した。しかしながらそうするとただちに私は気付いた、私がこのようにすべては偽である、と考えている間も、そう考えている私は必然的に何ものかでなければならぬ。そして、「我思う。ゆえに我あり」という真理は懐疑論者のどのような法外な想定によってもゆり動かし得ないほど、堅固で確実なものであることを、私は認めたから、私はこの真理を私の求めていた第一原理として、もはや安心して受け入れることができる、と判断した。

ホッブスからの反論

私は考えるものである。ということから、「われあり」が出てくるのは同意できる。なぜなら考えるものは無ではないからだ。しかし、私は精神だ、魂だとなると、首をかしげたくなる。私は考えるものである、だから私は信仰だ、というのは、なるほどとはならない。それなら、私は散歩するものである、だから私は散歩だ、ということになってしまう。