外交革命|18世紀ヨーロッパの同盟再編

外交革命

外交革命とは、18世紀中葉にヨーロッパ列強の同盟構造が急激に組み替えられた現象を指す概念である。従来、オーストリアとフランスは長年にわたり対立関係にあり、逆にオーストリアとイギリスは協調関係にあった。しかし1750年代半ばになると、オーストリアがフランスとの同盟へと転じ、イギリスはプロイセンと手を結ぶという劇的な同盟反転が生じた。この同盟構造の大転換を、後世の歴史家が外交革命と呼ぶようになったのである。

18世紀中葉ヨーロッパの国際関係

18世紀前半のヨーロッパは、ハプスブルク家を中心とするオーストリアと、ブルボン朝フランスとの長期的対立によって特徴づけられていた。この対立はスペイン継承戦争からオーストリア継承戦争に至るまで続き、イギリスは主としてオーストリア側を支援し、海上覇権と植民地利益を拡大していった。一方、ドイツ世界ではプロイセンが急速に台頭し、とくにシュレジェン(シレジア)地方をめぐる争いが、オーストリアとプロイセンの対立を決定的なものにしたのである。

オーストリア継承戦争の結果と課題

オーストリア継承戦争の結果、若きハプスブルク女帝マリア=テレジアの継承権は国際的に承認されたが、シュレジェンはプロイセンに留保されることになった。これは、ハプスブルク帝国にとって重大な経済的・軍事的損失であり、マリア=テレジアは失地回復を最重要課題とみなすようになった。このとき根拠となった皇女単独相続の原則がプラグマティッシェ=ザンクチオンであり、それを承認したはずの列強が戦時に容易に約束を破棄したことは、ウィーン宮廷に深い不信感を残したのである。

カウニッツの登場と対プロイセン包囲構想

こうした状況下で、オーストリアの外交を主導したのが外相ヴェンツェル・カウニッツである。彼は、最大の脅威はもはや伝統的な仮想敵であるフランスではなく、シュレジェンを掌握したプロイセンであると判断した。そのため、カウニッツはフランスとの長年の敵対関係をあえて乗り越え、反プロイセン包囲網を構築しようとした。ハプスブルク帝国の安全保障と領土回復のためには、旧来の同盟関係を犠牲にしてでも同盟構造を再編する必要があると考えたのであり、この発想こそが外交革命を準備したのである。

イギリスとプロイセンの接近

一方、イギリスは海上覇権と植民地支配の拡大に関心を集中させており、フランスとの植民地・海上競争が最大の懸案となっていた。イギリスにとって、ドイツ本土の戦争への深い関与は負担であり、陸上でフランスと対峙してくれる強力な同盟相手が望ましかった。そこで注目されたのがプロイセンであり、フリードリヒ2世が支配するこの国家は、機動的な軍制を背景にドイツにおける新興強国となっていた。こうしてイギリスとプロイセンは1756年に防御同盟を締結し、従来のイギリス=オーストリア協調は大きく揺らぐことになったのである。

フランス=オーストリア同盟とヴェルサイユ条約

イギリス=プロイセンの接近は、カウニッツの構想を後押しした。イギリスの支援を失ったオーストリアは、新たな同盟相手を必要とし、結果として長年の敵国フランスとの接近に踏み切る。カウニッツはパリ駐在大使としてフランス宮廷との関係改善に努め、1756年、第1次ヴェルサイユ条約が締結され、オーストリアとフランスは防御同盟を結ぶに至った。この新同盟は、のちにロシアなども巻き込み、プロイセン包囲の大陸同盟へと発展していく。こうした過程がまさに外交革命の核心であり、従来の「ハプスブルク対ブルボン」という図式が根本から転換したのである。

同盟関係再編の具体的変化

同盟構造の再編は、おおまかに次のように整理できる。

  • 旧体制では、イギリスとオーストリアが協調し、フランスがその敵対勢力として位置づけられていた。
  • 外交革命後は、イギリスがプロイセンと結び、オーストリアはフランス・ロシアとともに反プロイセン陣営を形成した。
  • 中部ヨーロッパではシュレジェンをめぐり、プロイセンとオーストリアの対立が同盟構造の中心的軸となった。

このように、宗教や王朝の伝統的敵対関係よりも、戦略的利益と安全保障上の計算が優先されるようになった点に、外交革命の重要な特徴がみられるのである。

七年戦争との関係

1756年に勃発した七年戦争は、この同盟再編の直接的な帰結であった。プロイセンとイギリスが一方の陣営をなし、他方にオーストリア・フランス・ロシアなどが結集したことで、戦争はヨーロッパ全域と植民地世界を巻き込むグローバルな性格を帯びた。シュレジェン問題は依然として紛争の中心にあり、オーストリアはシュレジェン奪回を目指し、プロイセンはその維持と生存をかけて戦った。七年戦争を理解するうえで、事前の外交革命による陣営再編を押さえることは不可欠である。

外交革命の歴史的意義

外交革命は、ヨーロッパ国際政治が伝統的な王朝間の宿敵関係から、より柔軟で現実主義的な同盟外交へと移行した象徴的出来事であった。オーストリアが失地回復という国家利益のために、長年の仇敵フランスとの同盟に踏み切ったことは、近世外交の「合理化」を示すものである。この転換は、女帝マリア=テレジアやカウニッツの政治判断に加え、プロイセン王フリードリヒ2世の行動、さらには啓蒙思想の広がりとも連動していたと解される。後世の歴史学では、フリードリヒ2世を典型とする啓蒙専制君主やオーストリアの改革を論じる際に、外交革命がしばしば参照されるのであり、18世紀ヨーロッパの政治秩序を理解する鍵概念となっているのである。