国共分裂
国共分裂とは、1920年代半ばに進められた中国国民党と中国共産党による第一次国共合作が、1927年を境に急速に崩壊し、両党が武力対立へと転じた歴史的過程を指す概念である。この過程は、北伐の進展とともに国民党内部の右派と左派の対立が激化し、ついには上海クーデタや各地での共産党員・労働運動への弾圧として表面化した。さらに、武漢を拠点とした左派国民党政権である武漢政府が共産党と距離を取り、統一戦線が完全に崩壊したことで、長期にわたる国共内戦の出発点となった出来事として位置づけられる。
第一次国共合作の背景
第一次国共合作は、軍閥割拠と列強の半植民地支配に苦しむ中国で、革命の継続をめざした国民革命の一環として形成された。国民革命軍を中核とする軍事力を整備し、黄埔軍官学校で幹部を養成することで、国民党は軍事的基盤を固めた。同時に、中国共産党員は個人の資格で国民党に参加し、労働運動や農民運動を通じて革命の大衆基盤を広げた。このような連携は、ソ連およびコミンテルンの支援を背景としており、反帝国主義・反軍閥という共通目標のもとで成立していたが、社会革命をどこまで進めるかという点で、早くから潜在的な緊張をはらんでいた。
北伐の進展と対立の激化
1926年に開始された北伐が成功を収めるにつれ、国民党内部の路線対立は鋭さを増した。革命軍が各地を制圧すると、農民協会や労働組合が地主や資本家に対して急進的な要求を掲げ、社会秩序は大きく揺らいだ。都市の商工業者や地主層、外国資本はこれに強い警戒感を抱き、国民党右派に対して共産党の影響力を抑えるよう圧力をかけた。他方、中国共産党は労働者・農民の運動を革命の推進力とみなし、ストライキや土地要求運動を拡大しようとしたため、国民党右派との対立は次第に妥協しがたいものになっていった。
上海クーデタと南京国民政府の成立
こうした対立が爆発的に表面化したのが1927年4月の上海クーデタである。蔣介石率いる国民党右派は、上海での労働者蜂起と共産党の影響力拡大を警戒し、軍と秘密結社を動員して労働組合や共産党組織を武力弾圧した。この事件により多くの共産党員・労働運動指導者が殺害・逮捕され、第一次国共合作は事実上の崩壊に向かった。蔣介石は南京に新たな国民政府を樹立し、以後の政権運営から共産党勢力を排除する姿勢を明確にしたことから、国共分裂の決定的な転機とみなされる。
武漢政府の動揺と統一戦線の崩壊
一方、長江流域を拠点とした武漢政府には、国民党左派と共産党がなお参加しており、当初は上海に対する対立政権として存在した。武漢では労働運動・農民運動がさらに活発となり、土地没収や工場占拠など急進的な行動が各地で展開された。しかし、農村・都市の有力者の反発や軍の離反、国際的な圧力が強まると、国民党左派内部にも共産党と距離を置く動きが生じた。1927年夏には、武漢政府も共産党員を排除する方針へ転換し、ここにおいて国民党と共産党の組織的協力関係は完全に断ち切られ、国共分裂が決定的となったのである。
共産党の武装蜂起と農村拠点の形成
国民党から追放された中国共産党は、都市での合法的活動の道を閉ざされ、武装蜂起と農村拠点の建設へと戦略を転換した。1927年8月には南昌起義、秋には湖南・江西一帯で秋収起義が起こり、敗北を重ねながらも農村部に革命根拠地を築く動きが進んだ。毛沢東らは山地に拠って遊撃戦を展開し、のちの中国革命に通じる農村包囲・武装闘争路線の基礎を形成した。この段階から国民党政権は、反共を掲げて各地の紅軍勢力に対する討伐作戦を繰り返し、国共間の対立は本格的な内戦の様相を呈することになった。
長期内戦と中国近代史における位置づけ
国共分裂は、一時的な政党間の亀裂にとどまらず、その後約20年に及ぶ国共内戦の起点として、中国近代史の構図を規定した出来事である。1927年以降の内戦は、日本の侵略によって一時的に第二次国共合作へと転じつつも、戦後に再燃して中華人民共和国の成立と国民党政権の台湾移転という帰結をもたらした。第一次国共合作期に掲げられた国民革命の理念や、国民革命軍・黄埔軍官学校出身者のネットワークは、その後も両陣営の政治・軍事エリートを通じて受け継がれた一方で、両党の対立は社会構造やイデオロギーを深く分断した。したがって、国共分裂を理解することは、中国における革命・国家建設・内戦の全体像を把握するうえで不可欠であり、北伐や上海クーデタ、蔣介石らの動向と密接に関連づけて捉える必要がある。