武漢政府
武漢政府は、1927年に中国国民党左派と中国共産党が連携して湖北省の武漢に樹立した革命政権である。第一次国共合作と北伐の進展の中で、広東の国民党政権から発展し、南京に拠点を置く蔣介石の政権と対立しつつ、労農大衆を基盤とする急進的な政治路線を掲げた。短期間で崩壊したものの、国民革命の分岐点として、のちの国民政府と中国共産党の対立構図を理解するうえで重要な政権である。
成立の背景
武漢政府成立の背景には、第一次世界大戦後の中国における軍閥割拠と列強の半植民地支配があった。孫文の三民主義を継承した中国国民党は、広東国民政府を拠点に国民革命軍を編成し、1926年から北伐を開始した。ソ連の支援と中国共産党の参加による連ソ・容共・扶助工農の方針のもと、労働運動や農民運動が高揚し、長江流域の重要都市である武漢一帯も国民革命の拠点となった。こうした中で、党内右派と左派の対立が激化し、やがて武漢に左派中心の政府が形成されることになった。
組織と指導者
武漢政府は、名目上は中国国民党の国民政府の一形態であり、主席には汪兆銘(汪精衛)が就任した。政府内部には国民党左派の政治家に加え、中国共産党の指導者やソ連顧問も重要な役割を果たした。武漢三鎮(漢口・漢陽・武昌)は長江流域の交通・経済の要衝であり、ここに政権中枢を置くことで、北伐中の国民革命軍を指導しつつ、江漢平野の広い農村地域に影響力を及ぼす体制が整えられた。
政策と特徴
武漢政府の政策の特徴は、「連ソ・容共・扶助工農」のスローガンに象徴されるように、労働者と農民を重視した急進的改革路線であった。都市では労働組合の組織化を後押しし、ストライキ運動や反帝国主義運動を支持した。農村では農民協会の結成や小作料の引き下げ要求が広まり、一部地域では地主制に対する挑戦が進んだ。また、帝国主義列強の租借地や治外法権の撤廃を主張し、反帝国主義の姿勢を鮮明にした点も重要である。
南京政府との対立と転換
武漢政府は、蔣介石が上海事件を契機に中国共産党勢力を弾圧して南京に樹立した政権と鋭く対立した。国民党内部には、北伐の継続や労農運動への対応をめぐり路線対立が存在し、その一方の中心が武漢政府であったといえる。しかし、急進的な社会運動の拡大は地主層や一部中間層の反発を招き、また国際的にも南京政権の方が列強から承認を得やすかった。やがて汪兆銘らは共産党との決別へと傾き、中国共産党員の排除を進めた結果、武漢政府は自らの左派的基盤を失い、最終的には南京政府との統合へ向かっていった。
崩壊と歴史的意義
武漢政府は1927年のわずかな期間しか存続しなかったが、その興亡は国民革命の限界と矛盾を象徴している。連ソ・容共の路線は、北伐初期の推進力であると同時に、国民党右派との激しい対立を生み出した。武漢政府の崩壊と中国共産党への弾圧は、第一次国共合作の終焉を意味し、その後の農村革命や長期の内戦へとつながる重要な転機となった。このように、武漢政府は中国近代史において、国民党と共産党の分裂過程を理解する鍵となる政権であり、北伐・国民政府・蔣介石・新三民主義といった諸要素と密接に結びついた歴史的存在である。