上海クーデタ|蔣介石が共産勢力を弾圧し国共決裂

上海クーデタ

上海クーデタは、1927年4月12日に中国の上海でおこなわれた中国国民党右派による軍事クーデタであり、中国共産党勢力と労働運動を武力弾圧した事件である。蔣介石の指導する国民党軍や秘密結社、商工業者勢力が協力し、上海の共産党員や労働組合活動家を大量に逮捕・処刑したことで、第一次国共合作は事実上崩壊した。この事件は四・一二事件や上海事件とも呼ばれ、その後の国民革命の進路と中国内戦の長期化に決定的な影響を与えた。

背景:第一次国共合作と北伐の進展

1920年代前半、中国では孫文の路線を継承した国民党が、ソ連の支援のもとで中国共産党と提携し、第一次国共合作を結成した。両党は軍事的には国民革命軍を組織し、1926年から北洋軍閥を打倒するための北伐を開始した。北伐軍は長江流域へ進出し、沿岸の大都市である上海は軍事・政治・経済の要衝として注目された。だが、国民党内部では共産党との提携をめぐって対立が深まり、左派・右派の路線対立が激化していた。

上海の労働運動と都市勢力

上海では1920年代を通じて工業化が進み、多数の労働者が紡績・造船・商工業に従事していた。共産党は労働組合を組織し、ストライキやボイコットを通じて勢力を拡大した。1925年の五三〇運動以降、反帝国主義運動と労働運動は結びつきを強め、上海の労働者は国民革命の重要な支柱となった。他方で、上海には租界を拠点とする外国資本や中国人商工業者、さらには秘密結社が存在し、彼らは急進的な社会運動の高まりに強い警戒心を抱いていた。

クーデタの経過

上海クーデタの展開は、北伐軍の上海進出と密接に結びついていた。1927年初頭、蔣介石は上海攻略を進める一方で、共産党勢力の排除を計画した。事前に商工業者や秘密結社と連携し、労働運動の拠点となる地区を把握していたとされる。

  1. 1927年3月から4月にかけて、上海の労働者は北伐軍を支持して武装蜂起を行い、市内の軍閥勢力を排除した。これにより、上海市内の秩序維持は事実上、労働組合と左派勢力が担う状態となった。
  2. 4月12日未明、蔣介石に近い部隊と秘密結社は同時多発的に労働組合本部や共産党の拠点を襲撃し、多数の活動家を逮捕・殺害した。この武力行動こそが狭義の上海クーデタである。
  3. その後数日間にわたり、国民党右派は共産党員や左派支持者の摘発を続け、白色テロと呼ばれる弾圧が展開された。犠牲者数は正確には不明であるが、数千人規模にのぼるとされる。

蔣介石と南京国民政府の成立

上海クーデタによって共産党勢力を排除した蔣介石は、国民党右派の主導者としての地位を固めた。彼はやがて南京に拠点を置く政権を樹立し、後に公式な国民政府(中国)とされる南京国民政府を形成した。この過程で、蔣介石は黄埔軍官学校出身の将校団を基盤とする軍事的支持を背景に、党内における指導権を掌握していった。一方、共産党系の軍事勢力は排除され、第一次国共合作は事実上終焉した。

武漢政府と国民党内分裂

上海クーデタに対して、長江上流の武漢を拠点とする左派国民党政権、すなわち武漢政府は当初、共産党との提携維持を掲げて蔣介石と対立した。武漢政府は労働者・農民運動の支持を受けつつ、ソ連や共産党と協力する姿勢を示したが、農村での急進的な土地運動や都市での混乱により、次第に内部の動揺が広がった。最終的には武漢政府も共産党との距離を取り、左派政権としての性格を弱めていくことで、国民党全体としての反共路線が強化されることになった。

中国共産党への打撃と戦略転換

上海クーデタは、中国共産党にとって致命的な打撃であった。都市部での組織網や指導的幹部の多くを失い、上海を中心とした労働運動は一時的に壊滅状態となった。これにより、共産党は都市での蜂起路線から、農村を基盤とする武装闘争路線へと戦略を転換していく。その過程で、農村根拠地を建設する指導者や、後に長征へとつながる軍事路線が形成され、中国革命の性格そのものが変化していった。

中国革命史における位置づけ

上海クーデタは、国民党が形式的には統一を達成しつつも、実際には反共・反労働運動を柱とする権威主義的な体制へと傾斜する転換点であったと評価されることが多い。蔣介石の指導する国民党政権は、以後も軍事力と官僚機構を通じて近代国家建設を進めたが、共産党との対立は長期化し、やがて全面的な内戦へ発展する。北伐期の諸事件や広東国民政府の経験、そして蔣介石個人の指導スタイルとあわせてみると、上海クーデタは20世紀中国政治の構造的な対立と緊張を象徴する事件として位置づけられる。