十月宣言
十月宣言は、1905年10月17日(ロシア暦)にロシア皇帝ニコライ2世が発した勅令であり、全国に広がった革命運動を一時的に沈静化させるために、言論・集会の自由や国会設置を約束した文書である。十月宣言は、専制君主制のロシア帝国に初めて立憲的な枠組みを導入し、のちに制定される1906年基本法と帝国ドゥーマ(国会)成立への重要な一歩となった。
歴史的背景
19世紀末から20世紀初頭にかけてロシア帝国は、急速な工業化と都市労働者の増加、農村部の貧困の深刻化に直面していた。皇帝ニコライ2世の専制政治は政治参加の道を閉ざし、社会不満は蓄積していった。さらに1904〜1905年の日露戦争でロシアが日本に敗北すると、軍事的威信の失墜と経済の混乱が重なり、体制への不満は臨界点に達した。
1905年1月には、司祭ガポンが労働者を率いて皇帝への請願行進を行ったが、兵士の発砲によって多数の死傷者が出る血の日曜日事件となり、全国的な怒りを呼び起こした。この事件を契機にストライキや農民反乱、軍隊の反乱が広がり、いわゆる第1次ロシア革命の段階へと突入した。都市部では労働者代表から成るソヴィエト評議会が組織され、既存の行政機構とは別の権力の中心として機能し始めた。
宣言発布の経過
秋になるとゼネストが帝国全土に波及し、鉄道や工場が停止し、行政もまひ状態に陥った。宮廷と政府内では、弾圧による鎮圧を主張する勢力と、一定の譲歩による妥協を唱える勢力が対立した。首相候補として台頭したウィッテは、譲歩と立憲化によって運動を分断すべきだと皇帝に説き、最終的に皇帝はこれを受け入れて十月宣言を発布するに至ったのである。
宣言が公表されると、ストライキの一部は収束に向かい、自由主義的知識人や都市中産階級の多くは「立憲への第一歩」として歓迎した。他方で、農民や急進的社会主義者、テロと土地再分配を唱えた社会革命党や農民基盤をもつエスエルなどは、専制を根本から変えない不十分な妥協として批判的であった。
十月宣言の主な内容
十月宣言は簡潔な文書であるが、当時のロシア帝国にとっては画期的な三つの柱を含んでいたと整理されることが多い。
- すべての国民に対する人身の自由、信教の自由、言論・集会・結社の自由の保障
- 選挙に基づく帝国ドゥーマの設置と、その立法への参加権の承認
- いかなる法律もドゥーマの同意なくして制定されないという原則の提示
こうした約束は、法の支配と代表制を求めてきた自由主義者にとって大きな前進と映った。彼らは後にカデット(立憲民主党)や十月党などの政党を組織し、ドゥーマを通じた改革を目指すことになる。他方、マルクス主義者の一部は、プレハーノフ派やマルトフらのようにこれを一定の進歩として評価しつつも、社会主義革命への過渡期にすぎないと捉えた。
影響と限界
十月宣言を受けて政府は1906年に基本法を公布し、形式的には立憲君主制の体裁が整えられた。しかし基本法はなお皇帝の権限を非常に強く維持し、軍や外交、官僚任命などの中枢は皇帝の裁量下におかれたままであった。ドゥーマも選挙制度の操作によって貴族や保守派が有利となり、皇帝は気に入らないドゥーマを度々解散させた。
それでも十月宣言は、専制体制の下で初めて自由や代表制が公式に認められたという点でロシア近代政治史上の画期である。宣言は革命運動をいったんは分断・沈静化させたが、不満の根源である土地問題や民族問題は解決されず、その矛盾は1917年の二月革命・十月革命へと持ち越されることになった。