全ロシア=ソヴィエト会議
全ロシア=ソヴィエト会議は、1917年のロシア革命期からソヴィエト国家体制が整う過程において、全国各地のソヴィエト(労働者・兵士・のちには農民の代表評議会)を統合した最高レベルの代表機関である。二月革命後に生じた臨時政府とソヴィエトとの二重権力状況の中で、全国的な政治方針を決定する場として開催され、とくに1917年10月の十月革命の時期には、ボリシェヴィキが掌握したこの会議がソヴィエト政権樹立を正式に宣言する機関となった。その後、ロシア連邦社会主義共和国 (RSFSR) 憲法の下で、名目上は国家最高権力機関として位置づけられ、のちの全連邦ソヴィエト会議や最高会議へと受け継がれていった。
成立の背景
第一次世界大戦の長期化と戦争負担の増大は、帝政ロシアの社会と経済を深刻に疲弊させた。1917年2月の二月革命によってロマノフ朝が崩壊すると、ペトログラードやモスクワなどの大都市では、労働者や兵士の代表からなるソヴィエトが急速に組織され、同時に臨時政府も権力を握った。こうして、臨時政府とペトログラード・ソヴィエトを中心とするソヴィエト勢力の「二重権力」が生まれたため、地方ソヴィエトを含めた全国レベルでの調整機関として全ロシア=ソヴィエト会議が構想されることになった。
第1回全ロシア=ソヴィエト会議
第1回全ロシア=ソヴィエト会議は、1917年6〜7月にペトログラードで開催された。ここには、メンシェヴィキや社会革命党(エスエル)を中心に、ボリシェヴィキやその他の社会主義勢力の代表が集まり、戦争継続や臨時政府への支持などをめぐって激しい論争が行われた。多数派を占めたメンシェヴィキやエスエルは臨時政府への協力を決議し、ボリシェヴィキの「全権力をソヴィエトへ」という主張は少数にとどまったが、この会議を通じて全国のソヴィエト組織が一応統合され、ソヴィエト側の全国代表機関としての枠組みが整えられた。
十月革命と第2回会議
1917年10月、戦争と経済危機への不満が高まる中で、レーニン率いるボリシェヴィキは都市ソヴィエト内で多数派を獲得し、武装蜂起の準備を進めた。こうした情勢のもとで開かれた第2回全ロシア=ソヴィエト会議(労働者・兵士代表ソヴィエト会議)は、十月蜂起の最中に開催され、ボリシェヴィキとその同盟勢力が主導権を握った。会議では臨時政府打倒と権力のソヴィエトへの移行が宣言され、「平和に関する布告」「土地に関する布告」などが採択されて、新たなソヴィエト政権の成立が正式に承認された。この時点で全ロシア=ソヴィエト会議は、革命政権の最高機関として位置づけられたのである。
農民ソヴィエトとの統合
十月革命後、ボリシェヴィキ政権は都市の労働者・兵士ソヴィエトだけでなく、広大な農村地域を代表する農民ソヴィエトを自らの基盤に取り込む必要に迫られた。そこで、農民代表ソヴィエトの全国会議と全ロシア=ソヴィエト会議を統合し、「全ロシア労働者・兵士・農民ソヴィエト会議」が形成される。これにより、土地没収と再分配を求める農民の要求をソヴィエト体制の枠内に組み込み、土地布告を通じて旧地主制を解体する政策が推し進められた。
ソヴィエト憲法と国家機構
1918年のRSFSR憲法は、全ロシア=ソヴィエト会議をロシア社会主義共和国における最高権力機関と規定した。会議は、法律の制定、主要方針の決定、政府機関である人民委員会議(ソヴナルコム)の監督などの権限を持ち、閉会中にはその代行機関として全ロシア中央執行委員会が活動した。代表は生産単位や兵営などから間接選挙によって選出され、都市労働者や兵士に大きな比重が与えられた点で、従来の議会制民主主義とは異なる「ソヴィエト民主主義」として構想された。
ソヴィエト体制における役割の変化
しかし、内戦と外国干渉が続く非常時体制のもとで、実際の権力はボリシェヴィキ党指導部に集中し、全ロシア=ソヴィエト会議は党の決定を追認する機関としての性格を強めていった。1922年にはロシア共和国とウクライナなど諸共和国のソヴィエト会議が合流してソビエト連邦が結成されると、全連邦ソヴィエト会議が創設され、全ロシア会議は連邦内部の一共和国レベルの機関へと位置づけが変化した。1936年憲法の制定により、最高会議が連邦の最高機関とされると、ソヴィエト会議体系はさらに形式化し、党の一元的支配のもとで代表制としての実質は大きく制限されていった。
ロシア革命史における意義
全ロシア=ソヴィエト会議は、二月革命後の二重権力期からロシア革命の完了に至る過程で、全国のソヴィエトを結集する代表機関として重要な役割を果たした。そこでは、臨時政府との対立や、戦争と平和、土地問題、権力の所在をめぐる社会主義諸党派の激しい論争が展開された。同時に、この会議を通じて「全権力をソヴィエトへ」というスローガンが国家制度として具体化され、のちの第一次世界大戦の終結後の国際政治に大きな衝撃を与えるソヴィエト型体制の原型が形づくられたと評価される。