第一次世界大戦の終結
第一次世界大戦の終結とは、1918年に中央同盟国が次々と崩壊し、休戦協定と講和条約の締結を通じて、4年以上続いた総力戦が政治的に閉じられていく過程を指す。戦場での決定的勝利というより、消耗しきった諸国の政体崩壊と民衆の戦争拒否の結果として戦争が止んだ点に特徴がある。この終結は、第一次世界大戦そのものの幕引きであると同時に、ヨーロッパ国際秩序と世界植民地体制を大きく組み替える転換点となった。
総力戦の疲弊と終結への流れ
1914年に始まった戦争は長期化し、塹壕戦と工業力を背景とした総力戦によって膨大な人的・物的損失を生んだ。封鎖や動員によって各国経済は疲弊し、物価高騰や食糧不足が都市部の社会不安を高めた。とくにドイツ帝国とオーストリア=ハンガリー帝国では、戦争継続能力が限界に近づき、国内の反戦運動やストライキが頻発した。こうした戦時疲弊の累積こそが、軍事的勝敗以上に第一次世界大戦の終結を促した要因である。
1918年の戦況転換と同盟国の崩壊
1917年以降、アメリカ合衆国の参戦によって協商国側の物資・兵力は大きく補強された。一方、ロシアではロシア革命が勃発し、単独講和によって東部戦線は消滅したが、ドイツは西部戦線で決定的勝利を得ることができなかった。1918年春攻勢が失敗に終わると、ドイツ軍は連合軍の反攻に押され、防御に追い込まれる。同年秋にはブルガリア、オスマン帝国、オーストリア=ハンガリーが相次いで休戦し、中央同盟国は連鎖的に崩壊していった。
ドイツ帝国の崩壊と11月休戦
決定的だったのは、1918年11月におけるキール軍港の水兵反乱を端緒とするドイツ革命である。反戦を掲げる兵士と労働者の運動は全国に波及し、各地にレーテ(評議会)が組織され、君主制打倒の声が高まった。皇帝ヴィルヘルム2世は退位・亡命に追い込まれ、ベルリンでは共和制が宣言されてドイツ共和国が成立する。新政府は戦争継続が不可能であると判断し、1918年11月11日、連合軍との休戦協定に署名して第一次世界大戦の終結を事実上受け入れた。
パリ講和会議とヴェルサイユ体制
戦争終結後、1919年にパリ講和会議が開催され、戦後秩序の具体的な枠組みが協議された。アメリカ大統領ウィルソンは十四カ条を提唱し、「民族自決」や「国際連盟」構想による新秩序を訴えたが、その理想は各国の利害と折衝されていく。ドイツに対する講和条約であるヴェルサイユ条約は、領土割譲、軍備制限、多額の賠償と「戦争責任」条項を含み、ドイツ国内に深い不満を残した。同時に、オーストリア=ハンガリー、オスマン帝国などの旧帝国領は分割され、東欧・中東で新たな国家群が誕生した。
戦争終結と民族・植民地問題
第一次世界大戦の終結は、ヨーロッパ内だけでなく、植民地世界にも重大な変化をもたらした。中東ではシオニズム運動に関わるバルフォア宣言や、アラブ独立をめぐる約束が複雑な民族問題を残した。インドでは、戦争協力の見返りとして示された戦後自治の約束(インド)が、後の民族運動と自治要求の根拠の一つとなる。戦後秩序は「民族自決」を掲げつつも、現実には列強の戦略的利害が優先され、多くの地域で新たな対立の火種が残された。
終結後の政治的不安定と新勢力
戦争の終結と帝政崩壊は、ヨーロッパ各地で急進的な社会運動と革命的風潮を生み出した。ドイツでは、スパルタクス団やローザ=ルクセンブルク、リープクネヒトらによる革命運動が展開され、やがてドイツ共産党結成へとつながる。一方で、保守勢力や旧エリートはこうした動きに反発し、政治的暴力と不安定さが戦後ドイツと東欧諸国の政治文化を特徴づけることになった。こうした緊張は、後のファシズム台頭や第二次世界大戦への道程とも深く結びついていく。
国際連盟と不完全な平和
第一次世界大戦の終結によって、国際協調を目指す国際連盟が創設され、戦争防止の新たな枠組みが模索された。しかし、主要国の不参加や制裁手段の弱さ、ヴェルサイユ体制への不満などにより、その機能は限定的であった。戦争を終わらせた講和は、旧秩序を解体しつつも、多くの矛盾と不満を抱えたまま新秩序を築いたにすぎず、この「不完全な平和」が20年後の新たな世界大戦の背景となったのである。