ペトログラード|ロシア革命の舞台都市

ペトログラード

ペトログラードは、第一次世界大戦期からロシア革命期にかけてのロシアの首都であり、現在のサンクトペテルブルクに相当する都市名である。もともと「サンクト・ペテルブルク」と呼ばれていたが、対独感情が高まった第次世界大戦中にドイツ風の「ブルク」をスラブ風の「グラード」に改めてペトログラードとされた。この都市は、ロマノフ朝末期の政治中枢であると同時に大工業都市・港湾都市として発展し、やがて革命運動の最大の舞台となった。

名称の由来と改称の経緯

都市名ペトログラードは、「ペトロ(ピョートル大帝)」と「グラード(都市)」を組み合わせたもので、「ピョートルの都」を意味する。北方戦争後に建設されたロシア帝国の新首都は、当初ドイツ語風の「サンクト・ペテルブルク」と呼ばれ、西欧志向を象徴する都市であった。しかし、第次世界大戦が勃発すると、ドイツ語由来の地名に対する反発が強まり、1914年に公式名称をロシア語風のペトログラードへと変更した。この改称は、帝国政府が「愛国的」世論に応えつつ、戦時体制下で国内の結束を図ろうとした政策的な一手であった。

帝国の首都としての機能

ペトログラードは、ロマノフ朝の宮廷が置かれた政治都市であると同時に、バルト海に面した重要な港湾都市であった。外交官、公務員、軍高官、貴族が集住し、帝国官僚制の中枢が形成される一方で、大規模な工場が集積し、多数の労働者が流入した。なかでも軍需工場は、第次世界大戦期に生産を拡大し、都市人口と社会矛盾を一層増大させた。こうした「宮廷都市」と「工業都市」が同居する性格は、後のロシア革命において決定的な役割を果たす要因となった。

第一次世界大戦と社会不安

次世界大戦の長期化は、ペトログラードの生活を急速に悪化させた。前線への兵士動員により都市の男性人口は減少し、残された労働者や女性は長時間労働と物資不足に苦しんだ。輸送網の混乱とインフレによってパンや燃料が不足し、食料配給所には長い行列ができた。こうした状況のもとで、戦争継続への不満と王制への不信が結びつき、ストライキやデモが頻発するようになった。この社会不安が、1917年の二月革命へとつながっていく。

二月革命とペトログラード・ソヴィエト

1917年の二月革命は、まさにペトログラードで始まった。パンの欠乏に対する市民の抗議行動と工場労働者のストライキが軍隊の反乱を呼び込み、ツァーリ体制は崩壊した。革命後、首都には臨時政府と「ペトログラード・ソヴィエト(評議会)」という二重権力が並立した。ペトログラード・ソヴィエトは兵士・労働者の代議機関として、ソーシャリスト諸派が結集する政治舞台となり、のちのソヴィエト政権の原型を形づくったのである。

十月革命とボリシェヴィキの権力掌握

同年の十月革命においても、ペトログラードは中心的な舞台であった。ボリシェヴィキは、戦争終結と土地の再分配を訴えつつ、ペトログラード・ソヴィエト内部で影響力を拡大させた。やがてレーニンの指導のもと、冬宮や政府施設が武装蜂起部隊によって占拠され、臨時政府は打倒された。この蜂起は比較的短時間で成功し、首都の権力中枢を押さえたボリシェヴィキは、全国的なソヴィエト体制の構築へと進んでいく。こうしてペトログラードは、帝政崩壊と社会主義革命が連続して起こった「二つの革命の首都」となった。

首都機能のモスクワ移転と改称

ボリシェヴィキ政権樹立後、内戦や外国軍干渉の危険が高まると、前線に近く海上からの攻撃を受けやすいペトログラードは防衛上不利とみなされた。1918年、政府は首都機能をモスクワへ移転し、ペトログラードは政治的中心地の地位を失う。その後、1924年にレーニン死去を受けて都市名は「レニングラード」と改称され、ソ連崩壊後の1991年に住民投票によって再びサンクトペテルブルクという名称が復活した。したがってペトログラードという名は、主として第次世界大戦とロシア革命の時期を象徴する歴史的呼称として用いられている。

都市社会と革命文化

ペトログラードには、大工場の集中によって高度に組織化された都市労働者層が形成されていた。彼らはストライキやデモに積極的に参加し、ソヴィエトや政党の支持基盤となった。また、大学や新聞社、出版社、劇場などの文化施設も集まり、革命思想や社会主義理論が広く共有される土壌が育まれた。とりわけ戦時期には、兵士と労働者、知識人が同じ都市空間で交わることで、政治的ラディカリズムが急速に高まった。このようにペトログラードは、単なる首都ではなく、帝国の矛盾が集中し、それが爆発することで新たなソビエト連邦誕生へとつながった歴史的都市として位置づけられる。