フエ条約(ユエ条約)|ベトナム保護国化を定める条約

フエ条約(ユエ条約)

フエ条約(ユエ条約)は、19世紀後半、フエでフランスと阮朝のあいだに結ばれた保護国条約である。1883年の第1次条約と1884年の第2次条約からなり、安南・トンキンをフランスの支配下に置き、ベトナム王権の外交・軍事の主権を大きく奪った。これにより、ベトナムは名目上の王国でありながら、実質的にはフランス植民地帝国の一部となった。

成立の背景

18世紀末、ベトナムでは西山の乱西山朝の支配が続いたが、宣教師ピニョーの後援を受けた阮福暎がこれを倒し、19世紀初頭に越南国を建ててフエに都を置いた。のちに国号はベトナムとして定着し、阮朝が中部から北部を統治したが、南部のコーチシナではフランスが宣教権と通商権を口実に軍事介入を進め、王朝の統制力は弱まっていった。

フランスは第一次・第二次サイゴン条約によってサイゴン周辺を獲得し、インドシナ進出を拠点とした。19世紀80年代にはトンキン進出をめぐり清と対立し、軍事を背景にフエ宮廷に新たな保護国条約の締結を迫った。その結果として結ばれたのが保護国条約であり、フランスのインドシナ政策が質的に転換する契機となった。

第1次フエ条約(1883年)

第1次の条約は1883年8月、フランス軍の圧力のもとで締結された。条約は安南・トンキンに対するフランスの保護権を公認し、ベトナムの対外関係と関税をフランスの管理下に置くことを定めた。また、要地への駐兵権や道路・河川の開放などが盛り込まれ、王朝側の軍事行動は厳しく制限された。その一方で、フエ宮廷や地方官僚には屈辱条約との意識が強く、各地で反仏的な動揺を生み出した。

第2次フエ条約(1884年)

翌1884年に結ばれた第2次の条約は、第1次条約の過酷な条文を整理しつつ、フランスの保護国体制を改めて確認するものであった。フランスはベトナム王を伝統的象徴として温存しながら、resident-superieur(上級理事官)をフエに常駐させ、行政・財政・軍事など重要事項の最終決定権を握った。これによって、フエ宮廷は国内統治の一定の余地を保ちながらも、主権国家としての実質を失うことになった。

影響と意義

これらの条約によってベトナムは清の宗主権から切り離され、フランスの保護国として国際的に位置づけられた。条約は清仏戦争と天津条約で追認され、安南・トンキンはコーチシナとともにフランス領インドシナ連邦の一部とされた。税制や司法制度、教育制度の改変を通じてベトナム社会は植民地経済に組み込まれ、農村部では反仏蜂起や官僚層の抵抗運動が広がり、近代ベトナムの民族運動・独立運動の出発点のひとつとなった。