大腸菌|腸内に棲み遺伝子工学を支える細菌

大腸菌

大腸菌(学名:Escherichia coli)は、腸内細菌科エシェリキア属に分類されるグラム陰性の桿菌である。ヒトや温血動物の大腸に常在し、大半の株は無害とされる。ただし、腸管出血性大腸菌O157のように重い食中毒を起こす株も存在する。増殖が速く遺伝子操作がしやすいため、分子生物学のモデル生物として長く研究されてきた。現在はインスリンや酵素の工業生産にも使われ、医療、食品、製造業のいずれにも深く関係する微生物である。

発見と命名の経緯

1885年、ドイツの小児科医テオドール・エシェリヒ(Theodor Escherich)が乳児の糞便から分離し、当初は「Bacterium coli commune」と名付けた。現在の属名Escherichiaは発見者にちなむもので、1919年に提案され、1950年代に正式に定着している。20世紀半ばにはジョシュア・レーダーバーグらが細菌の接合現象をこの菌で確認した。分子生物学の基礎となる発見の多くは、この小さな桿菌から生まれている。

細胞の形態と生育条件

菌体は長さ約2〜3µm、直径約0.5〜1µmの棒状で、周毛性の鞭毛で運動する株が多い。通性嫌気性のため、酸素があってもなくても生育できる。至適温度は37℃前後で、栄養条件がよければ約20分で1回分裂する。単純計算では、1個の菌が7時間で200万個を超える。標準株K-12のゲノムは約4.6Mbpの環状DNAで、約4,300個の遺伝子を持つ。1997年にはこの全塩基配列が解読された。

大腸菌と大腸菌群の違い

衛生検査では「大腸菌」と「大腸菌群」がはっきり区別される。大腸菌群は乳糖を分解して酸とガスを作るグラム陰性桿菌の総称で、土壌や植物に由来する菌も含む。これに対し大腸菌はE. coliという1つの種だけを指し、糞便汚染をより直接に示す。日本の水道水質基準では、2004年の改正で指標が大腸菌群から大腸菌に切り替わった。

項目 大腸菌群 大腸菌(E. coli)
定義 乳糖を分解しガスを産生する菌群の総称 単一の菌種
由来 糞便のほか土壌・植物など 主に温血動物の腸管
示すもの 一般的な衛生状態 糞便汚染の可能性
主な基準例 食品衛生法の加熱食品など 水道水(100mL中検出されないこと)
代表的な試験法 BGLB培地、デソキシコレート培地 特定酵素基質培地、ISO 16649

病原性大腸菌の分類

ヒトに病気を起こす株は、病原因子の種類によっておおまかに5つに分けられる。血清型はO抗原(菌体抗原)とH抗原(鞭毛抗原)の組み合わせで表し、O抗原だけでも約180種類が知られている。

  • 腸管病原性大腸菌(EPEC):乳幼児の下痢症の原因となる
  • 毒素原性大腸菌(ETEC):旅行者下痢症の代表的な原因菌
  • 腸管侵入性大腸菌(EIEC):赤痢菌に似た症状を示す
  • 腸管出血性大腸菌(EHEC):ベロ毒素を作り、溶血性尿毒症症候群を起こすことがある
  • 腸管凝集付着性大腸菌(EAEC):持続性の下痢と関係する

日本では1996年、大阪府堺市の学校給食でO157の集団感染が起き、患者は9,000人を超えた。これを受けてEHEC感染症は感染症法の3類感染症に指定され、医師には届出が義務づけられている。

O157の特徴

O157は100個程度の少ない菌数でも感染が成立するとされる。熱には弱く、中心温度75℃で1分以上の加熱で死滅する。大量調理施設衛生管理マニュアルがこの加熱条件を定めているのも、こうした性質による。

バイオ医薬品・工業生産での利用

1978年、ジェネンテック社は遺伝子組換えによってヒトインスリンを大腸菌に作らせることに成功した。1982年には世界初の組換え医薬品として米国で承認されている。目的の遺伝子をプラスミドに組み込んで菌に導入し、培養槽の中でタンパク質を大量に作らせる。インスリンのほか、成長ホルモンやインターフェロン、工業用酵素もこの方法で生産されてきた。実験室では制限酵素やDNAポリメラーゼの生産にも欠かせない。最近はアミノ酸や有機酸を作る代謝工学の宿主としても使われている。

宿主選定の実務的な判断

受託製造の現場では、大腸菌か酵母か動物細胞かを、コストと品質要求を比べて決める。大腸菌は培地が安く、数日で生産を終えられるため、単価の安いタンパク質に向いている。一方で、糖鎖を付加できないうえ、目的タンパク質が封入体として不溶化しやすい。そのため、リフォールディング工程の収率が全体のコストを大きく左右する。抗体医薬のように複雑な分子では、CHO細胞などの動物細胞を選ぶのが一般的である。また、グラム陰性菌の外膜に由来するエンドトキシンを除く精製工程も必要で、ここでの手間が小さな企業にとって大きな負担になりやすい。

実験室株K-12とB株

研究に使われる株の多くは、1922年に分離されたK-12系統と、B株の系統に由来する。どちらも腸管にほとんど定着できず、病原性がないため、バイオセーフティレベル1(BSL-1)で扱える。タンパク質の発現にはB株由来のBL21(DE3)がよく使われ、T7プロモーターと組み合わせて高い発現量を得る。クローニングにはDH5αやJM109といったK-12由来株が定番になっている。株の名前を見るだけで研究目的がある程度わかるのも、この分野の特徴である。

食品工場・水処理での管理

食品製造の現場では、大腸菌は工程の衛生状態を確かめる指標菌として扱われる。HACCPの計画では、加熱工程を重要管理点(CCP)とし、中心温度と保持時間を記録して管理することが多い。手洗い設備や器具をふき取って検査し、検出された場合は殺菌の手順を見直す。検査法には、ISO 16649や水質のISO 9308-1などの国際規格がある。社内の微生物試験を外部の検査機関に依頼すると、1検体あたり数千円が目安になる。検査の頻度と費用の兼ね合いは、品質保証部門がよく悩む点である。

浄水場では、塩素で消毒し、給水栓で遊離残留塩素を0.1mg/L以上に保つよう水道法施行規則で定められている。大腸菌は塩素に比較的弱いが、クリプトスポリジウムのように塩素が効きにくい原虫は別に対策が必要になる。そのため、ろ過や紫外線処理を組み合わせた多重のバリアで安全を確保している。器具の滅菌には、121℃で15分以上のオートクレーブ処理が広く使われている。

薬剤耐性と腸内細菌叢での役割

健康な人の腸では、大腸菌は腸内細菌全体のうち0.1%程度にすぎない。それでもビタミンKを作り、病原菌が入り込む余地を減らす役割を担っている。近年は、基質特異性拡張型βラクタマーゼ(ESBL)を作る耐性株が院内感染や尿路感染症で問題になっている。抗生物質を適正に使うことは、医療の分野だけでなく畜産の分野でも国際的な課題になっている。WHOは2017年に、優先的に対策すべき耐性菌の一覧で、カルバペネム耐性の腸内細菌科細菌を最も優先度の高い区分に入れた。

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