1851年のクーデタ|第二共和政を終わらせた政変

1851年のクーデタ

1851年のクーデタは、フランス第二共和政の大統領であったルイ=ナポレオン・ボナパルトが、任期延長と権力集中を目的として1851年12月2日に実行したクーデターである。この出来事によって国民議会は解散され、翌年には第二帝政が成立し、ルイ=ナポレオンはナポレオン3世として即位する。1848年の二月革命によって誕生した共和政体制は、このクーデタによって終焉を迎え、フランス政治は再び権威主義的な帝政へと転換した。

第二共和政とルイ=ナポレオンの台頭

1848年の二月革命で七月王政が崩壊すると、フランスでは共和政体制として第二共和政が成立した。臨時政府は普通選挙や労働の権利を掲げ、失業対策として国立作業場を設置するなど社会改革を試みたが、財政負担や政治的対立から混乱を招いた。六月にはパリで労働者蜂起が起こり、これが六月蜂起として鎮圧されると、秩序回復を掲げる保守派と共和派が台頭し、社会主義的な実験は後退した。この不安定な状況のなかで、ナポレオン1世の甥ルイ=ナポレオンは「秩序」と「民衆」の双方に訴える人物として人気を集め、1848年12月の大統領選挙で圧倒的多数により当選した。

憲法と任期制限をめぐる対立

第二共和政の憲法は、大統領の任期を4年とし、ただし連続再選を禁じていた。ルイ=ナポレオンは地方遊説を通じて自らの人気を訴えつつ、憲法改正による任期延長を求めたが、議会多数を占める保守的な議員は、大統領の権限強化を警戒して改正に反対した。議会はむしろ1850年に選挙法を改正し、納税要件を導入して有権者数を大幅に削減し、社会下層の政治参加を制限した。これにより、1848年の四月普通選挙で実現した普選原則は後退し、大統領は「民意の代表」として議会のエリート支配を批判する姿勢を強めていったのである。

クーデタ決行までの準備

任期満了が迫るなかで、ルイ=ナポレオンは合法的な憲法改正が不可能だと判断し、軍と行政機構を掌握しながら秘密裏にクーデタを準備した。内務省や警察組織の要職には自らに忠実な人物を配置し、軍司令官も入れ替えることで、非常時に即応できる体制を整えた。また、地方のボナパルティスト組織や新聞を通じて、議会を「国民の意思を妨げる勢力」と描き出し、必要とあれば非常手段に訴えることも正当化していった。こうした宣伝は、1848年の政変と六月蜂起の記憶に不安を抱く農民や中産階級にも浸透し、クーデタへの潜在的支持を形成した。

1851年12月2日の行動

1851年12月2日未明、ルイ=ナポレオンは予定していたクーデタを発動した。軍隊はパリの要所を占拠し、反対派とみなされた議員や軍人、新聞人を一斉に逮捕した。市内には、国民議会の解散、治安維持のための戒厳令、そして普通選挙の復活と新憲法制定のための国民投票実施を告げる布告が貼り出された。これは、議会に抑圧されていた民衆の権利を自分が回復させるというイメージを演出するものであり、制度的にはクーデタでありながら、形式的には「国民に訴える」手続きが組み合わされていた点に特徴がある。

パリと地方の抵抗と弾圧

クーデタに対しては、共和派や一部の議員、知識人による抵抗も生じた。パリではバリケード闘争が試みられ、地方でも南部や東部を中心に共和派が「憲法を守れ」として蜂起を呼びかけた。しかし軍と警察は迅速かつ苛烈に行動し、多くの反対派を逮捕・鎮圧した。共和派将軍カヴェニャックのような人物も影響力を発揮できず、抵抗は各地で孤立的なものにとどまった。数万人規模の逮捕者が出て、その一部はアルジェリアへの流刑や海外追放などの処分を受け、共和派勢力は大きく弱体化した。

国民投票と第二帝政への道

弾圧と並行して、ルイ=ナポレオンはクーデタの正当性を国民投票によって確認しようとした。1851年12月に実施された国民投票では、政府側の強い圧力や行政介入があったものの、公表された結果では圧倒的多数がクーデタを承認したとされた。その後制定された新憲法は、大統領の任期を10年とし、議会を弱体化させるなど、執政権に力を集中させる性格をもっていた。こうして第二共和政は事実上瓦解し、1852年には新たな憲法と国民投票を経て第二帝政が宣言され、ルイ=ナポレオンはナポレオン3世として皇帝に即位した。

クーデタの歴史的意義

1851年のクーデタは、1848年革命で生まれた共和政がいかに脆弱であったか、また普選と国民投票が権威主義的支配と結びつきうることを示した事件である。大統領は自らを「民意の直接の体現者」と位置づけ、議会や政党を既得権益として攻撃しつつ、国民投票で正統性を確認するという手法を用いた。これは後の plebiscite 型独裁の典型とみなされ、マルクスが『ルイ・ボナパルトのブリュメール18日』で分析したように、社会階級の対立が複雑に絡み合うなかで、一人の指導者が仲裁者として権力を掌握する過程として理解されている。クーデタはまた、第二帝政期の対外政策や国内近代化の前提となり、フランスとヨーロッパの19世紀後半史に大きな影響を及ぼした。

関連人物と出来事

1851年のクーデタを理解するには、1848年の臨時政府に参加したラマルティーヌ、七月王政末期に政権を担ったギゾー、第二共和政憲法を制定した議会勢力、そしてその憲法のもとで生まれた第二共和政憲法などの動向を押さえることが重要である。また、普通選挙の制限に反対して展開された選挙法改正運動(フランス)や、その後の第二帝政との連続性を追うことで、このクーデタが19世紀フランス政治史全体において占める位置がより明確になる。