六月蜂起|労働者反乱が共和国揺るがす

六月蜂起

概要

六月蜂起は、1848年革命のさなか、1848年6月23日から26日にかけてパリで起こった労働者の武装蜂起である。二月革命によって成立したフランスの共和政が、失業救済制度である国立作業場の廃止を決定したことに抗議して、パリ東部の労働者が一斉に立ち上がった。蜂起は軍隊と国民自警団によって激しく鎮圧され、多数の死傷者と逮捕者を出し、以後のフランス政治を大きく右傾化させる転機となった。

歴史的背景

1848年の二月革命で七月王政が倒れ、男性普通選挙を掲げる第二共和政が生まれた。暫定政府は都市労働者の失業を和らげるため国立作業場を設置したが、財政負担の増大と農村・ブルジョワ層の反発から、議会の保守派は制度の縮小と廃止を強く主張した。1848年6月、政府が若年労働者をパリ外への移送や失業者名簿からの抹消などを命じると、生活の糧を失うと感じた労働者の怒りが爆発した。

蜂起の経過

こうして始まった六月蜂起は、首都を巻き込む激しい市街戦となった。石畳をはがしたバリケードが労働者地区に張り巡らされ、軍隊は砲兵を投入して住宅街ごと制圧するという、近代都市戦の先駆けといわれる戦闘が展開された。

  • 6月23日 パリ東部で労働者がバリケードを築き、国立議会の決定に抗議して蜂起した。
  • 政府はカヴェニャック将軍に非常権限を与え、正規軍と中産階級の国民自警団を総動員した。
  • 路地ごとに銃撃戦が起こり、戦闘を止めようとしたパリ大司教も流れ弾で死亡するなど、市民の犠牲が拡大した。
  • 6月26日までに主要なバリケードが陥落し、組織的抵抗は終息した。

結果と影響

鎮圧の結果、数千人規模の労働者が戦死し、逮捕者の多くは死刑・重労働刑、あるいはアルジェリアなどへの流刑に処せられた。政府は労働クラブや新聞を閉鎖し、社会主義的結社を禁止して、都市労働者を政治の場から排除した。第二共和政は「労働の権利」を掲げた初期の姿から遠ざかり、秩序と所有権を優先する保守的な共和政へと変質していった。

思想的影響

この経験は、労働者とブルジョワジーの対立をはっきり示した事件として、同時代の思想家に大きな衝撃を与えた。とくにマルクスとエンゲルスは、共産党宣言で論じた階級闘争の図式が現実の政治闘争として現れた例として六月蜂起を重視した。マルクスは『ルイ・ボナパルトのブリュメール18日』でこの敗北を分析し、フランスにおけるルイ・ナポレオン体制の成立を、労働者階級の孤立と分断の上に築かれた支配として描き出している。