第二共和政
第二共和政は、1848年の二月革命によって立憲王政の七月王政が崩壊したのち、フランスに成立した共和制政体である。期間は1848年から1852年までであり、男子普通選挙にもとづく大統領制と一院制議会を採用した点で、近代的な民主政の試みとして位置づけられる。しかし、社会問題をめぐる急進派と保守派の対立、農民と都市労働者の利害の不一致などから政治的不安定に陥り、最終的にはルイ=ナポレオンのクーデタによって終焉し、第二帝政への移行を準備した政体である。
成立の背景
フランスでは1789年のフランス革命以降、共和政と君主政が交替しつつ政治体制が揺れ動いた。1830年には七月革命が起こり、オルレアン家のルイ=フィリップを国王とする七月王政が始まったが、この体制は選挙権を富裕層に限定し、中産階級と金融資本に有利な政治を行ったため、都市労働者や農民の不満を高めた。1840年代には不況や失業が深刻化し、選挙法の改正を求める運動が高揚していくなかで、1848年2月にパリで民衆が蜂起し王政が倒れ、暫定政府を経て第二共和政へ移行する条件が整ったのである。
成立と1848年憲法
1848年の政変後に成立した臨時政府は、言論・集会の自由の拡大や失業対策としての国立作業場の設置など、民主的・社会的改革を打ち出した。同年4月には男子普通選挙にもとづく制憲議会選挙が行われ、農村部の保守的有権者の影響を受けて穏健共和派が多数を占めた。制憲議会は新しい共和制の枠組みとして1848年憲法を制定し、国民の直接選挙で選ばれる大統領と、一院制の立法議会からなる体制を定めた。この憲法は権力分立と国民主権の原則を明記し、同時期にヨーロッパ各地で起こった1848年革命にも影響を与えたと評価される。
第二共和政の制度的特徴
第二共和政の制度は、従来の王政と区別される近代的共和制の要素を多く含んでいた。そのおもな特徴は次のように整理できる。
- 成年男子にほぼ全面的に開かれた男子普通選挙
- 国民の直接選挙で選出される任期4年の大統領制
- 一院制議会による立法権の行使
- 信教・言論・集会の自由の承認と市民的権利の明記
これらの原則は、のちの第三共和政や他国の共和制にも継承され、フランスにおける民主主義の重要な段階を示すものであった。
ルイ=ナポレオンの当選と政権運営
1848年12月、大統領選挙が実施されると、ナポレオン1世の甥であるルイ=ナポレオンが圧倒的得票で当選した。彼はナポレオン家の名声と農民層の期待を背景に、「秩序」と「社会問題の解決」を同時に約束する姿勢を示し、多くの有権者に支持された。大統領となったルイ=ナポレオンは、当初は共和制の枠内で議会多数派との協調を模索したが、次第に権限強化を志向し、自らの個人的権威を高める方向へと動いていった。
社会対立と体制の保守化
第二共和政期には、社会問題をめぐる対立が突出していた。1848年6月に国立作業場が廃止されると、労働者はこれに抗議して蜂起し、いわゆる6月蜂起が発生した。政府は武力でこれを鎮圧し、多数の死傷者と逮捕者を出したことから、共和政は労働者にとって必ずしも解放の政体ではないという不信を招いた。その後、議会では秩序党とよばれる保守派勢力が台頭し、1850年には選挙法改正により有権者資格が厳格化され、男子普通選挙の範囲は大きく後退した。このように第二共和政は、自由と平等の理念を掲げながらも、治安と秩序を優先する保守化の過程をたどったのである。
崩壊と第二帝政への移行
憲法上、大統領の任期は再選禁止の4年と定められており、ルイ=ナポレオンの任期は1852年に満了することになっていた。彼は再選を可能にする憲法改正を求めたが議会の反対に遭い、これを突破するために1851年12月2日にクーデタを決行した。クーデタ後、彼は国民投票によって自らの権力を承認させ、翌1852年に皇帝ナポレオン3世として即位した。この時点で第二共和政は終わりを迎え、フランスは再び帝政期へと入ることになった。
ヨーロッパ史における意義
第二共和政はその短さにもかかわらず、フランスにおける民主政治の実験場であり、また共和制の名のもとで社会問題をどのように扱うかという課題を浮き彫りにした政体であった。1848年前後の動きはフランスにとどまらず、ドイツやイタリアなどヨーロッパ各地での立憲運動や国民国家形成に波及しており、その中核としてフランスの経験が参照された点も重要である。さらに、農民や都市労働者の政治的動員、大統領制と議会制の緊張関係といったテーマは、のちの共和政や他国の政治体制を理解するうえでの重要な比較素材となっている。