選挙法改正運動(フランス)|普通選挙を要求した市民運動

選挙法改正運動(フランス)

選挙法改正運動(フランス)とは、19世紀前半のフランスで行われた、制限選挙制度を改革しようとする政治運動である。とくに七月王政期のルイ=フィリップ体制のもとで、選挙人となれるのは高額納税者に限られており、国民の大多数は政治参加から排除されていた。この不満の蓄積が、野党勢力による「宴会運動」と呼ばれる大規模なキャンペーンとなって展開し、やがて1848年の二月革命の直接の契機となった。したがって本運動は、近代フランスにおける議会政治と普通選挙への道を切り開いた重要な出来事である。

七月王政の制限選挙制度

1830年の七月革命によって成立したルイ=フィリップの七月王政は、「市民王」と称されるように、旧王党よりも自由主義的な体制とみなされた。しかし選挙制度は依然として納税額に基づく制限選挙であり、有権者は人口のごく一部の富裕なブルジョワ層に限られていた。1830年代から40年代にかけて、産業と商業が発展する一方、政治的発言権は限られたエリート層に集中し、地方の中産階級や知識人、また都市の職人・労働者は排除されたままであった。この構造的な不平等が、後の選挙法改正運動(フランス)の温床となったのである。

選挙法改正要求と宴会運動

1840年代に入ると、野党自由主義者たちは、穏健な立憲体制を維持しつつ有権者層を拡大するため、選挙法の改正を求め始めた。彼らは議会での追及だけでなく、地方都市にも広がる政治集会を開催し、公開の場で演説を行うことで世論を喚起した。しかし当時の法制度では、政治集会は厳しく規制されていたため、野党は「宴会」という形式を利用して大衆を集めたのである。この宴会運動は、各地での祝宴や食事会の場に政治演説を組み込み、選挙法改正の必要性を訴える巧妙な運動として展開された。

宴会運動の特徴

  • 政治集会規制を回避するため、形式上は私的な宴会として開催された。
  • 地方都市にも広がり、地方ブルジョワや専門職層を巻き込んだ。
  • 演説では、納税資格の引き下げなど漸進的な選挙法改正が主に主張された。
  • 共和主義者や社会主義者など急進派も一部参加し、運動に多様な政治的色彩を与えた。

経済危機と二月革命への連結

1846年前後には農業不況と経済危機が重なり、失業や物価高騰によって都市の労働者や貧困層の不満が高まった。にもかかわらず、政府の中枢を握るギゾー内閣は選挙法改正に頑なに反対し、体制の硬直は一層深刻になった。1848年初頭、パリで予定されていた大規模な宴会が政府によって禁止されると、これは表現と政治参加の自由を踏みにじる行為として、広範な層の怒りを呼び起こした。抗議デモはわずかの衝突から一気に拡大し、街路にはバリケードが築かれ、ついにルイ=フィリップは退位に追い込まれる。こうして選挙法改正運動(フランス)は、単なる制度改正の要求を超え、王政そのものを終焉させる革命へとつながったのである。

共和政の成立と普通選挙

王政崩壊後に成立した第二共和政政府は、臨時政府と国民議会を通じて、男性普通選挙の導入を決定した。これにより、有権者数は一挙に拡大し、従来政治から排除されていた農民や都市労働者も投票権を獲得したのである。この変化は、1789年のフランス革命以来の民主主義的理想が、ようやく具体的な選挙制度として実現したことを意味した。しかし同時に、広範な有権者を抱えた大衆政治は、新たな不安定さやポピュリズムの可能性も内包しており、その後のルイ=ナポレオンの台頭や第二帝政の成立へと連続していく。

歴史的意義

選挙法改正運動(フランス)は、自由主義的な立憲王政の枠内で選挙制度を漸進的に改革しようとした運動でありながら、結果として王政崩壊と共和政の樹立をもたらした点に大きな特色がある。制限選挙への不満と経済社会問題が結びつくことで、制度改革要求が革命へと転化する過程は、近代ヨーロッパ政治史の重要な事例である。また、この経験は、後のヨーロッパ各国における選挙権拡大運動や自由主義・社会主義思想の発展にも影響を与え、19世紀の政治運動を理解するうえで欠かせない位置を占めている。