雨森芳洲|江戸中期の朱子学者。中国・朝鮮との友好外交

雨森芳洲

雨森芳洲は、江戸時代中期に対馬藩の外交実務を担い、李氏朝鮮との交渉や通訳・翻訳を通じて日朝関係の安定に寄与した儒者である。相手国の言語と慣習を尊重し、虚飾ではなく誠実さにもとづく外交を説いた点に特色があり、「互いに欺かず争わず」「誠俗の交わり」を行として、友好外交に努力し、国内外でその評価は高かった。また、現場で培った知見を理論化し、外交や語学教育の指針として整理したことで、近世の対外交流のあり方に長い影響を残した。

雨森芳洲の略年

1668 近江の伊香郡に町医者の子として生まれる。
1686 朱子学者木下順庵に入門。
1689 対馬藩の儒官となる。
1698 朝鮮方佐役に就く。
1703 韓国の釜山に滞在(〜1705)
1720 朝鮮方佐役を辞任。
1724 対馬藩主の側用人に就任。
1755 対馬で死去。

雨森芳洲の生涯

雨森芳洲は、近江国伊香郡に生まれ、18歳のころ江戸に出て、木下順庵の門に入り、新井白石や室鳩巣と並び称された。木下順庵の推挙により対馬藩に仕え、朝鮮との外交に活躍、朝鮮通信使の来日に際して、書記として江戸に随行した。当時、鎖国政策と中国における明、清の王朝交代などの国際情勢の変化によって、江戸幕府は、対外関係を中国・オランダとの通商、朝鮮・琉球との通信という狭い範囲に限定していた。また、正式な外交関係を結んだ独立国は朝鮮のみであり、朝鮮通信使の来日は、日本の国際的地位を検証する場として、大きな政治的意義をもっていた。朝鮮語や中国語などの語学に長けていた雨森芳州は朱子学の精神で互いに衝突するような外交は避け、誠意と信頼を根本とする友好外交につとめ、日本はもとより、中国や朝鮮でもその評価は高かった。雨森芳州の外交努力によって、日本の儒者などの知識人は使節の一行との交際は、新知識を得る手段となり、珍しい異国の文物に接するなど文化的影響も大きかった。

生涯と対馬藩への出仕

雨森芳洲は1668年に生まれ、1755年に没したとされる。学問としては儒学を基盤としつつ、机上の議論にとどまらず、実務の世界で鍛えられた点が重要である。江戸時代の日本で朝鮮との外交窓口を担ったのが対馬藩であり、藩の役職として通訳・文書作成・交渉補助などを担う人材が不可欠であった。雨森芳洲はその中核に位置し、交渉の現場で「通じる言葉」と「通じない前提」を徹底して見極める姿勢を培ったのである。

対朝鮮外交の現場と「誠信」の思想

雨森芳洲が重視したのは、相手の体面を利用して押し切るような交渉術ではなく、相互の信を損なわない手続きの積み重ねである。ここでしばしば語られるのが「誠信」という観点であり、友好は文言の美しさよりも、約束を守り、誤解を減らし、相手の制度や価値観を理解する姿勢によって保たれるという発想である。儒学的な道徳観を背景にしながらも、道徳の唱道だけでなく、実務としての翻訳・文書作法・儀礼運用に落とし込んだところに独自性がある。

対等を装うより、相互理解を優先する姿勢

近世外交では、用語の選択や儀礼の順序が政治的意味を帯びる。そこで生じる摩擦を抑えるためには、相手の言い回しや禁忌、称号の扱いを理解し、誤解が生じにくい表現へ整える必要がある。雨森芳洲は、こうした作業を単なる技術ではなく、関係維持の根幹と捉えたといえる。

語学・翻訳への貢献

雨森芳洲の業績は思想面だけでなく、語学の訓練と翻訳実務の整備にも及ぶ。朝鮮語の習得は通訳個人の才覚に依存しがちであったが、外交の継続性を確保するには学習の方法を共有し、用語の揺れを抑え、定型文の運用を標準化する必要があった。雨森芳洲は現場で得た経験をもとに、学習と運用の要点を整理し、外交文書の読み書きや会話の精度を高める方向へ導いたとされる。これは近世の知識人が「外国語」を体系的に扱う早い例の一つとして位置づけられる。

  • 対話で誤解が生じる箇所を分析し、言い換えの原理を意識する
  • 固有名詞・官職名・年号など、外交で衝突しやすい語を丁寧に扱う
  • 儀礼や文書定型を理解し、翻訳を単語対応にしない

朝鮮通信使との関わり

朝鮮通信使は、江戸期の日本と朝鮮の間で友好を確認する外交使節であり、接待・行列・儀礼・贈答などが一体となった国家的行事であった。対馬はその中継と調整の要であり、通訳は情報の交通整理役となる。雨森芳洲は、使節側の言語表現や礼法の背景を踏まえ、行事が政治的対立に転化しないよう、細部の調整に力を注いだと理解される。通信使の往来が続くこと自体が、東アジア情勢の中で「衝突より管理」を優先する選択の表れであり、彼の実務はその基盤を補強したのである。

1711年、朝鮮使節来聘

1711年、朝鮮使節来聘の際に、幕府の迎接役の新井白石が名分を重んじ将軍の呼称を「大君」から「国王」に変更しようとしたことに反対し、対立した。

学問的位置づけと評価

雨森芳洲の特徴は、朱子学を中心とする当時の学問環境に身を置きながらも、抽象的な名分論へ偏りすぎず、言語・文書・儀礼という具体的領域で「信」を構築する方法を提示した点にある。政治思想としては穏健でありながら、実務に根差した規範を持ち込むことで、外交を一時の駆け引きではなく制度として維持する発想を強めた。後世から見れば、国境を越えた関係において、相手の歴史と文化を理解することが最終的に自国の利益にもつながるという、長期安定志向の先駆的な知見を示した人物として位置づけられる。