奇兵隊|名付けて奇兵隊と言わん。

奇兵隊

奇兵隊とは、身分に関わらず兵士として参加できる能力主義の部隊で、長州藩の高杉晋作が設立した。文久3年(1863)下関で外国軍艦の来襲に備えるため奇兵隊を結成した。高杉晋作は、上海への留学中に清国でイギリス軍と戦っていた民兵をみた経験から奇兵隊の構想を得、長州藩主、毛利敬親に献策した。高杉晋作、赤禰武人、山縣有明が率いる。山縣有明奇兵隊の経験を経て日本近代軍隊(国民軍)を作ることになる。

構成

武士出身49.6%
農民出身40.3%
寺社出身5.1%
町人出身5%

規則厳守

民兵で構成されているため、酒や遊興を禁止、喧嘩や口論、だれが強いか弱いかなどの話も禁止された。

諸隊

奇兵隊の他、力士で構成された力士隊、商人で作った足市隊、大工でつくった撰鋭隊、神主で作った神威隊、また、来島又兵衛が奇兵隊に触発されて編成した漁師達の遊撃隊もある。一般的にこのような組織は諸隊と言われる。

民兵の目的

当時武士以外の階級の人間を集めたのは、次のような目的がある。高杉晋作は吉田松陰の草莽崛起(そうもうくっき)の思想(「草莽崛起 恐れながら朝廷も幕府もわが藩さえもいらぬ丈夫な身体さえあればいい」)に大きな影響を受けており、藩全体の力を養う必要があった。また、文久2年(1862)、神国上海を訪れた高杉晋作は、太平天国の乱で革命軍が外国軍を見方にした政府軍に善戦する様子をみたこともあると思われる。
また、海に囲まれ、外敵からの危険を受けやすい長州の地理的条件から、庶民にとっても外敵と戦う組織は重要であった。

高杉晋作

高杉晋作奇兵隊の創始者。第二次長州征伐で長州藩全軍の指揮をとった人物である。長州藩名門高杉家の摘男で久坂玄瑞と双璧として知られている。「有志の士をつのり一隊を設立し、名付けて奇兵隊と言わん。いわゆる正兵は総奉行の兵なりこれにたいし奇兵とせんと」

白石正一郎

白石正一郎は、奇兵隊の資金援助を行った。下関の廻船屋小倉屋を経営していた白石は、長州藩による搾取や江戸や大坂の独占に不満をもっており、藩や幕府に抵抗する者を積極的に援助しており、奇兵隊だけでなく、長州藩の高杉晋作久坂玄瑞桂小五郎薩摩藩西郷隆盛や吉村虎太郎など400人以上に援助をおこなったと言われている。

四国連合艦隊下関砲撃事件

奇兵隊は四国連合艦隊下関砲撃事件での奮闘から長州藩内で存在感を示した。

長州藩の正義派と俗論派の対立

長州藩は幕府に恭順しようとする俗論派と攘夷路線を進める正義派に二分されていた。俗論派が主流であったが、これを打破すべく、奇兵隊を率いる軍監・山縣恭介(山縣有朋)率いる奇兵隊と遊撃隊と力士隊率いる高杉晋作が決起し、長州政府軍を打破した。

第二次長州征伐

第二次長州征伐高杉晋作は海軍総督として奇兵隊をはじめ諸隊の指揮をとり、幕府軍を敗走させた。その翌年、高杉晋作は結核のため死去する。

戊辰戦争と解散

奇兵隊は戊辰戦争の後、藩からの解散命令が下る。これに不満を持った隊士は叛乱(脱隊騒動)を起こすが、反政府は武力で鎮圧し、約100名の刑死者を出した。

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