土佐藩|土佐国(現在の高知県)全域を領有した外様藩

土佐藩

土佐藩(とさはん)は、廃藩置県以前に土佐国(現在の高知県)全域を領有した外様藩である。明治初年の正式名称は高知藩(こうちはん)。藩庁は高知城(高知市)にあり、大広間詰国持大名で、一貫して山内家が支配した。藩の石高は公式には20万2600石であったが、実際には新田開発により幕末には約50万石に達した。

藩の成立と発展

土佐藩領域は戦国時代末期には長宗我部家が統治していたが、長宗我部盛親が関ヶ原の戦いで西軍に与して改易された。代わって徳川家に味方した遠江掛川城主の山内一豊が、土佐国20万2600石を与えられ、1601年に浦戸城に入城した。一豊は「一領具足」と呼ばれた半農半兵の長宗我部家旧臣の反乱に備えるため、藩内の要衝に重臣を配置した。中村の山内康豊(2万石)、佐川の深尾重良(1万石)、宿毛の山内可氏(7000石)、窪川の山内一吉(5000石)、本山の山内一照(1300石)、安芸の五藤為重(1100石)などがその例である。

当初、一豊は浦戸城に入城したが、城下町を開くには狭かったため、現在の高知市中心部に高知城と城下町を建設した。藩政が確立したのは2代藩主山内忠義の時代で、忠義は野中兼山を登用して新田開発や殖産興業に努めたが、兼山の強引な施策は政敵の恨みを買い、失脚した。

藩政の構造と行政

土佐藩の政治体制は、家老、中老、馬廻、小姓組、留守居組などの上士と、郷士、用人、徒士、足軽、武家奉公人などの下士に厳格に分けられていた。藩政は家老から任命される奉行職(執政)が統率し、実務は中老や馬廻から任命される仕置役(参政)とその下の各奉行が担当した。裁判や警察は大目付が統轄し、藩主側近の近習家老が支援した。民衆支配は町・郡・浦の奉行が行い、その下で地域の行政事務を助けたのが庄屋であった。高知城下には町会所が置かれ、総年寄、庄屋、年寄、総組頭などの町役人が町政をつかさどった。郡奉行は村役人を監督し、村には庄屋・老(年寄)・組頭が置かれた。

郷士制度

山内家が土佐に入封した際、旧領主である長宗我部家遺臣の多くは郷士とされたが、有能な人材であれば上士として召抱えられることもあった。郷士制度は、基本的には在郷武士であり、土佐藩においては下士の上位に位置づけられていた。江戸時代中期には商品経済が農村部まで浸透し、郷士の身分を譲渡する者も現れた。

藩政の変遷と改革

土佐藩の財政は江戸時代中期頃までは比較的安定していたが、宝暦期(1751年 – 1764年)以降、一揆や農民の他領への逃散などで動揺した。9代藩主山内豊雍による質素倹約を基本とする藩政改革(天明の改革)や、13代藩主山内豊熈による「おこぜ組」を中心とした改革が行われたが、いずれも困難に直面した。

幕末の動乱と維新への道

幕末には、15代藩主山内容堂(豊信)が吉田東洋を起用して改革を断行した。東洋は保守派門閥や郷士の反感を買い、武市瑞山を中心とした土佐勤王党によって暗殺された。後に勤王党は実権を回復した容堂(豊信)の報復を受け、瑞山の切腹や党員の処刑など弾圧解散された。土佐藩は薩長土肥の一角をなし、坂本龍馬や後藤象二郎らの活躍により大政奉還を実現し、江戸幕府の歴史を閉じる重要な役割を果たした。明治4年(1871年)、廃藩置県により高知県となった。

歴代藩主

山内家は初代藩主山内一豊から始まり、16代にわたって土佐藩を統治した。歴代藩主の中でも、2代山内忠義は藩政の基礎を固め、15代山内容堂は幕末の動乱期に活躍した。

主な藩主

  • 初代:山内一豊(やまうち かつとよ)
  • 2代:山内忠義(やまうち ただよし)
  • 9代:山内豊雍(やまうち とよちか)
  • 13代:山内豊熈(やまうち とよてる)
  • 15代:山内容堂(やまうち とよしげ)

藩邸と菩提寺

江戸藩邸は上屋敷、中屋敷、下屋敷の三つがあり、京都や大坂にも藩邸が設けられた。土佐藩の菩提寺は高知の曹洞宗日輪山真如寺であり、江戸では貝塚にある曹洞宗万年山青松寺が用いられた。

土佐藩の遺産

土佐藩は、坂本龍馬、板垣退助、中岡慎太郎、岩崎弥太郎など、明治維新期に活躍した多くの人材を輩出した。廃藩置県後、山内家は華族として侯爵に列せられ、土佐藩の歴史と文化は現在も高知県に受け継がれている。

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