全ロシア=ムスリム大会
全ロシア=ムスリム大会は、1905年の第一次ロシア革命を契機として、ロシア帝国領内のムスリム代表が一堂に会し、自らの政治的・宗教的権利や自治を要求した全国規模の会議である。タタール人やコーカサス、中央アジアなどの諸民族を含むイスラーム教徒が参加し、帝国内における平等な市民権、宗教の自由、教育制度の改革などを議題とした。この大会を通じて、ロシア・ムスリムは組織的な政治運動を開始し、のちにドゥーマ(帝国議会)で活動するロシア・ムスリム同盟の形成へとつながった。
ロシア帝国におけるムスリム社会の位置
19世紀末から20世紀初頭のロシア帝国は、タタール人、バシキール人、コーカサス諸民族、中央アジア諸民族など、多数のムスリム住民を支配していた。彼らは農民や商人、宗教指導者など多様な身分を持っていたが、帝国政府は正教会を優遇し、イスラーム教徒には土地所有の制限や宗教教育への干渉など差別的な政策を行うことが多かった。このようななかで、イスラーム改革運動であるジャディード主義が広まり、近代教育や出版活動を通じて、ムスリム社会内部に民族意識や政治参加への関心が高まっていった。こうした社会変化が全ロシア=ムスリム大会開催の土台となった。
第一次ロシア革命と大会開催の背景
1905年、戦争と政治的抑圧への不満から全土でストライキや蜂起が起こり、いわゆるロシア革命(第一次ロシア革命)が発生した。皇帝は十月宣言で立憲体制への移行を約束し、政治的結社や集会に一定の自由が与えられた。ムスリム指導者たちはこの機会を利用し、帝国内の各地域から代表を集めて全ロシア=ムスリム大会を開き、共通の要求と政治方針をまとめようとしたのである。大会は1905年から1906年にかけて複数回開かれ、ロシア語とともにタタール語やトルコ語などが使用される、多民族・多言語の会合となった。
大会の組織とロシア・ムスリム同盟
全ロシア=ムスリム大会には、ヴォルガ・ウラル地方のタタール人商人や知識人、コーカサス地方の有力者、中央アジアの宗教指導者など、地域と身分を超えた代表が参加した。彼らは大会の場で全国的な政治組織を結成し、それがロシア・ムスリム同盟(Ittifaq al-Muslimin)と呼ばれるようになった。同盟は帝国議会ドゥーマにおいて議員グループを形成し、他の自由主義政党と連携してムスリムの権利擁護に努めた。とくに土地問題や農民救済、宗教の自由、地方自治の拡大などを重要な政策課題とし、帝国の枠内での改革を志向した点に特徴がある。
大会で議論された主な課題
全ロシア=ムスリム大会では、帝国の政治体制とムスリム社会の将来に関わる多くの論点が取り上げられた。代表たちは、専制的な支配から立憲的な体制への転換を支持しつつ、ムスリムの宗教的・文化的権利が新憲法の下でどのように保障されるべきかを議論した。また、シャリーア(イスラーム法)と世俗法の関係、宗教裁判所の位置づけ、徴兵制度への対応など、具体的な問題も検討された。さらに、ムスリム女性の教育の拡充や婚姻制度の改善も取り上げられ、家族やジェンダーのあり方をめぐる近代化の議論も行われた。
民族自決と自治要求
大会に参加した代表の間には、将来の政治体制をめぐって、帝国の枠内での文化的自治を重視する立場と、より強い政治的自治や民族自決を求める立場が併存していた。前者はロシアの自由主義勢力と協調しつつ、教育や宗教に関する権限をムスリム共同体に委ねる文化的自治を構想した。他方、後者は各地域における国家的発展を視野に入れ、広範な自治権を要求した。このような議論は、のちの民族運動や、各民族共和国の構想にも影響を与えることになった。
教育改革とイスラーム改革運動
全ロシア=ムスリム大会の議題のなかで、教育問題はとくに重視された。ジャディード派と呼ばれる改革派知識人は、近代的な学校制度を整備し、世俗科目と宗教教育を組み合わせた新しいカリキュラムを普及させる必要性を訴えた。彼らは新聞や出版物を通じてイスラーム世界の情報を紹介し、イスラーム思想の刷新と社会の近代化を図ろうとした。大会は、ムスリム自身の手で教師を養成し、母語による教育を拡大する方針を打ち出し、これが地域社会における学校設立運動を後押しした。
パン=イスラーム主義との関係
全ロシア=ムスリム大会は、世界的なイスラーム復興運動であるパン=イスラーム主義とも密接に結びついていた。ロシア帝国内のムスリム指導者たちは、新聞や巡礼などを通じて、オスマン帝国の動向や中東の政治情勢に関する情報を受け取り、自らの運動を広いイスラーム世界の文脈に位置づけた。とくにオスマン帝国の憲政運動や青年トルコ人の活動は、専制体制の改革をめざす模範として意識され、ロシアのムスリムに政治参加への自信を与えたとされる。
第一次世界大戦とソ連邦成立への影響
全ロシア=ムスリム大会とロシア・ムスリム同盟の活動は、第一次ドゥーマ・第二ドゥーマ期を通じて続いたが、選挙法の改正や反動政治の強まりによって次第に制約された。やがて第一次世界大戦とロシア革命が勃発すると、帝国は崩壊に向かい、各地でムスリムの自治政府や民族共和国の構想が現れた。ボリシェヴィキ政権は一時的に民族自決を掲げ、ムスリム地域に自治共和国や自治ソヴィエト社会主義共和国を設置したが、その過程には全ロシア=ムスリム大会を通じて形成された政治経験とネットワークが生かされたと考えられる。最終的にこれらの領域はソ連邦の構成共和国や自治共和国として再編され、ムスリム社会は社会主義体制の下で新たな位置づけを与えられることになった。